見慣れた街の、見慣れた風景。
 けれどどこかしら見知らぬ景色のように思えるのは、今夜が少し特別なものだからだろうか。
 夜の空気はしっとりと湿っていて、そよぐ風は生ぬるい。
 それでも時折、間近にある川面から吹き上げて来る風には冷たい空気が混じっていて、汗ばんだ肌に心地よかった。
 長い黒髪を持つ無邪気な友人は「あっちの方がもっと良く見えるんだって」と嬉しそうに言うと、同じような笑みを浮かべた彼と幼い彼女の手を引いてその場所へと行ったっきり帰って来ない。
 残されたのは私と彼の二人きり。
 いや、でもこれはある意味一人でいるのと変わらないんじゃないかしら? と疑問に思う。
 自然と首を傾げた私の頭上に、夜空を彩る大輪の花が咲き誇った。


空に咲く花


 ドーン!

 鼓膜を震わせるほどの大きな音が、辺りにこだまする。
 身体を包んだ空気の層がびりりと震え、足元から細やかな振動が伝わって来る。
 そこかしこから歓声が聞こえ、火薬を含んだ独特の鼻を突く匂いが一瞬だけ辺りを包み、川からの風に吹かれては消えた。

 暗闇を染めた色とりどりの欠片達がひらひらと舞い落ち、一瞬だけそれが降り注ぐような錯覚に捕らわれる。
 けれどどれだけ見上げていても、赤や青の色彩が降りてくることはなく。
 我ながら子供じみていると思いながらも、そのことを不思議に感じずにはいられなかった。

 またすぐに、空が明るく光る。それからちょうど一呼吸分だけ遅れて、空気の振動が伝わる。
 足先に触れる川べりの雑草も、ざわざわと震えているように思える。着慣れない帯を締めたその場所にまで、響きが伝わるような気がした。
 それが意味もなく可笑しくて、何故だか無性に面白くて。
 浮かぶ笑みを堪え、私は無邪気な彼女の残して行った団扇を使いながら、目の前で眠る彼の顔を見やった。



 彼は川べりに敷いた敷物の上にごろりと寝転んで、私の脚に頭をのせてぐっすりと眠り込んでいる。
 勤めを終えたままの服装が堅苦しくて、いっそこの場所では浮き立って見えるほど。
 額から流れる前髪の隙間から、少し疲れたような薄い瞼が覗いていた。
 その頬を赤く染めて、咲き終えた花の欠片が降ってくる。
 光に照らされ、様々に色を変える彼の頬をじっと見つめた。

 夢の中でさえ、緩むことのない険しい眉。
 一文字に引き締められた薄い唇は、彼が深い眠りに落ちていることを表している。
 いくら最近忙しかったからといって、ここで眠ることはないでしょう?
 そう言ってやろうかとは思うものの、いくら呟いてみたところで、これだけの音で目を覚まさない彼に伝わるはずもなく。
 心地良さそうに眠る彼の横顔に、ため息を漏らすことしか出来なかった。


 せっかく着付けてもらったのに。
 帯は見た目よりも苦しいし、浴衣だって思っていたほど涼しくもない。
 その上、慣れないせいで足先は痛むし。
 いったい誰のために着たと思っているのかしら。
 つまらない、せっかく楽しみにしていたのに。


 やるかたない思いを抱えて、空を見上げた。
 今さっきまで夜空を染めていた色とりどりの光が、雨の糸のようにも見える。
 本当に、何て綺麗なの。
 二人寄り添って眺めたら、どれだけ素敵だったことかしら。
 こんな風に川べりに腰を下ろして、空を仰いで。
 肩に回った彼の腕に、そっと身体をあずけて……

 それがどうしてこうなったのだろう。
 仕事帰りに合流した無愛想な彼は、花火が始まるまでのほんの僅かな間に「少し休む」と言ったっきり身動きもしない。
 もちろん初めて見るはずの浴衣にも、一言の誉め言葉もなかった。
 こんな風に不機嫌そうに眉を顰めながらも、それでも安らかに眠っている横顔を見ていると、この彼にそんな期待をした私が悪かったのかとすら思えてくる。
 レイジのバカバカ、鈍感!
 けれど、そうやって心の中で罵りながらも、この平和な寝顔を起こしてしまうことはどうしても出来なくて……
 結果として、その場に座ったまま動けない私がいた。



 夜空を照らす光の花は絶え間なく咲いて、いつまでも尽きることがない。
 だから私も、いくらでも飽きるほど目の前の彼の寝顔を眺めていられる。
 本当に、まったくもって何てありがたいのかしら。
 時折照らされる額には、細かい汗の粒が浮かんでいかにも暑そうだ。
 見ているとこっちまで汗ばんできそうなので、手にした団扇でゆっくりと風を送ると、険しい表情が少しだけほぐれたように感じる。
 そう、あなたも暑かったのね。もともと体温も高い方だし、いつものこの服装なら当然だったかも。
 そう思い、私は一人笑う。
 仕方がないので風を紡ぐ手はそのままに、また一人空を見上げた。
 身も心も許した相手が、すぐ側で安らいでいる状況というものは、思えばそれほど悪くはないような気がする。
 相手がこの彼ならなおのこと、考えてみればいかにもありがちな展開にため息を一つ。
 そう、確かに思ったほど悪くはない。
 でも……やっぱりちょっとは腹立たしいようにも感じる。

 そろそろ終わりに近付いたのか、一際大輪の花が開く。
 そのとき、彼の右の頬に一匹の蚊が止まっているのが見えた。
 始めてみるほどに大きくて、丸々と太ったヤブ蚊。
 私は反射的に腕を振りかぶり、そこで一瞬だけその手をどうするべきか思い悩んだ。
 もしかして、眠っている彼の頬をぶつつもり?
 だって、蚊が止まっているんだもの。このままでは刺されてしまうでしょう?
 それにしたって、こんなに気持ち良さそうに眠っているのよ?
 それは分かっているわ。分かっているけど……でも……


 半ば開き直りに近い気持ちで、振り上げた手のひらを真っ直ぐに振り下ろす。
 もちろん、手加減なんて一切しなかった。

 ぴしゃっと、我ながら小気味良い音がする。
 同じタイミングで、空には最後の一輪が花開いた。
 「むむっ!?」
 寝ても覚めてもその険しい表情に変化のない彼は、それでも痛むであろう頬をさすりながら訝しげな視線を向ける。
 いったい何ごとだ? とでも言いたげな口元を無視したまま、無言で手のひらを差し出した。

 「蚊……だろうか?」
 見れば分かるはずなのに、わざわざ口に出して確認する姿が可笑しくて自然と口元が綻ぶ。
 「ふ、ふふっ」
 呆気に取られたような彼を尻目に、唇からは自然と笑い声が零れ落ちた。
 ああ、何だかいい気分、胸がすーっとした感じ。
 だってあなたってば、さっきからずっと眠っているんだもの。
 楽しみにしていた仕掛け花火もナイアガラも、20連発だって全部終わってしまったわ。
 そりゃ確かに綺麗だったけど、これなら一人で見たのと変わらないじゃない。
 私はただ……一緒に見たかっただけなのに。
 言ってやりたいことは山ほどあったけれど、そのどれ一つとして言葉になりはしない。
 代わりにいつの間にか涙が浮かんで、綻んでいたはずの唇を噛み締める。
   驚いたように眉を上げる彼の顔が少しだけ滲んで見えた。


 「メイ……すまない」


 彼が小さな声で呟いて、私は何も答えないままその腕に引き寄せられる。
 手にした団扇が、足元の草むらにはらりと落ちた。
 「私が悪かった」
 暖かい腕が背中に回り、かかえ込むように抱き締められる。
 耳元に唇が近付いて、低い声でもう一度、同じ言葉を繰り返した。
 今更そんなこと言ったって、許してなんてあげないわよ?
 そう答えようとは思っても、噛み締めた唇は自分でも分かるほどに震えていて。
 浮かんだそれを零すまいと上げた視線の先には、赤く染まった彼の頬があった。

 私の手の形そのままの中心には、ぷくりと膨れた虫刺されの跡。
 かわいそうに、あれ程ぶたれた上に結局刺されるなんて、あなたも運が悪いわね。
 そんな風に考えると、くすりと小さな笑いが漏れた。
 窮屈なその場所から右腕を抜き、彼の頬を撫でる。
 少し上にある襟足を抱き寄せて、その場所に唇を当てた。

   「……もういいわ」

 呟いた私の声に、彼は安堵したような困ったような、少し情けない表情を浮かべる。
 そして心底嬉しそうに、それはまるで子供のように、私にだけ見せる特別な笑顔でもう一度強く抱き締めた。



 いつしか眠ってしまった小さな彼女を背負い、無邪気な友人とその彼は手を振って家路を辿る。
 それを同じように見送ってから、私たちもまた並んで歩き始めた。
 「……どうだっただろうか? 日本の花火は」
 自然と触れ合う指先を繋ぎ、彼が少し前を歩きながら私へと振り返る。
 「そうね、まるで夜空に一瞬だけ咲いた花のようで……とても綺麗だったわ」
 その言葉に小さく頷いて、彼が空を見上げる。
 今はその名残もない夜空には、ようやく居場所を取り戻してほっとしたような、名もない星達が静かに瞬いていた。

 「確かに、美しいな」
 「あら、あなたは一つも見ていないのではなくて?」
 からかうように声をかけると、ふふんと鼻で笑い口角を上げる。
 そして「私が言っているのは……」と前置きし、一言だけ耳元で囁いた。

 「浴衣を着た、君のことなのだが?」

 「!?」

 思いもかけなかった不意打ちに、頬が熱くなる。
 この場所が暗くてよかった、心からそう思った。
 「……本当に、バカなんだから」
   どうにかそうとだけ言い返すと、それでも愉快そうに視線だけで笑う。
 それがどうにも悔しくて、でもやっぱり嬉しくて。
 自然と緩む口元を見せたくなくて、俯いたまま彼に寄り添った。



 来年こそは、一緒に見ましょう?

 うむ、そうあるように努力しよう。

 努力じゃダメよ、今すぐ約束なさい!

 ……ああ、なら約束だ。

 ええ、約束。


 しっかりと結ばれたその指は、とても優しくて暖かくて。
 私はもう一度、涙が溢れそうになった。







END.


再び yes to to toさん宅の 10000ヒット記念のSSリクエスト権を頂いたので…
お言葉に甘えてまたもSSを頂いてしまいました…
しつこく頂いてすいません…
夏なのでお祭りなお話を!とリクエストさせて頂きました。
ら、読んだ私がお祭り気分ですよ、もう!!河原で膝まくらですよ!!?おふっ…(嗚咽)
どうにか時間が出来たら挿絵というか
この状況を図で表したい…と鼻息を荒くしているのですが…
もちっと先になりそう…です。おお…膝…まく…ら…
kanata様、10000ヒットおめでとう御座います!掲載がすごく遅れてしまい申し訳有りませんでした;

2006.7.22


kanataさんのサイト↑

お写真はこちらからお借りしました。 clef
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