魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−



 ゼロは不可解に思っていた。
 デバイス『ヌーベルトーレ』を用いて、完全にはやての心を押さえ込み、彼女の身体や思考までも操ることに成功しているのに、その時々において、齟齬が生じるのだ。
 こちらの操作に誤りはない。完璧にプログラムを組み、はやてのリンカーコアを経由して、完全に掌握しているのにも関わらず、齟齬が生まれてくる。
 一体どうして?
 首を捻らずには入られない。
 だが暫く様子見していうる内に、齟齬が生まれるのに前後して、今まで経験したこともないような鈍痛を感じる事に気がついたのだ。
 まさか、この所為で? そんなバカな・・・。
 彼は首を捻り訝しんだ。しかしそれ以外に理由が見つからないし、説明出来ないとなれば、痛みの原因を探るしか無くなってくる。
 外傷によるモノではなかった。その証拠に、彼はこれまで戦場に立つような事をしていない。それなのにその鈍痛は体の奥の方。臍下の辺りで、まるで自己主張するように激しく疼くのだ。
「いったい何なんだ。この痛みは・・・」
 知らず口元からこぼれた言葉に、彼の傍らに控えていたゼムゼロスが過敏に反応してみせた。
「どうした? ゼロ」
 彼が手にするデバイス『トライホーン』は現在、自動修復中の状態にあった。そのため表立った戦闘が出来ないと言うこともあり、ゼロの警護役に徹していたのである。ならば、少しでもゼロの態度に不審なところがあれば、気遣って当然だった。
 しかし数千km離れた地点にいるはやてを操ることに神経を集中させているゼロに、彼の問いかけは届かない。だがその代わり、ゼロの眉間に苦悶のしわが刻み込まれるのだ。
 それをよくない兆候だと判断したゼムゼロスは、なんとかゼロの精神に介入することは出来ないかと思案した。
 しかし良い方法は浮かばない。
 元を正せば、彼らは一つの生物から生まれた存在だ。互いの体を接触させて、直接呼びかけることが出来るはずだった。だが下手を打てば、互いの精神の境目があやふやになり、どちらの精神も崩壊してしまう危険性がある。それだけは避けなければならない。もしそうなれば、ゼロをニンゲンにするという彼とゼラフィリスの野望は、水泡に帰してしまうだろう。それだけはなんとしても避けねばならない。
 だが・・しかし・・・。
 己の無力を痛感しながらも、ゼムゼロスは策を講じ続けた。
 そうこうしているうちに、彼はその瞬間に立ち会うことになってしまうとも知らずに。

   ◇

「ブリッジ! こちらオブライエンだ。ガーフィールドの班と合流した。
 結果から先に言えば、左艦首はもう諦めた方が良い。コンダクターが一基になっちまうが、破損箇所丸ごとパージして質量を軽くすれば問題ないはずだ」
 シモーネ不在のブリッジに、いかにも頑固一徹といった風体の中年男性がモニターに映し出され、その声が響いていた。五人一チームの編成で、艦内に配置されている整備班の一つを任されているイングリッド・オブライエンだ。
 報告の通り、先のHUVによる攻撃(『雷帝の鉄槌』)によって、大破した左舷艦首の被害報告と、その対策を知らせてきたのだ。
 そしてその報告を受けたのは、操船指揮担当であるセイン・カーペンターである。
「了解。艦長代理として承認します。よろしくたのんます。
 それと申し訳ないんすが、推進器周りに助っ人お願いしても構わないっすか?」
「手こずってるのか?」
 モニター越しにも、捻りハチマキであちこちから上がってくる報告に忙殺されているとわかるセインに、オブライエンは無遠慮に問い返した。
 この道三十余年という彼の目には、セインは叩けば伸びる人間と映っている。だからこの程度のことでパンクするなよとばかりに、少しばかり、意地の悪い問い返しをしてみせたのだ。どうせ仕えるならば、延びしろのある若造(あるいは未熟者)に仕えた方が良いに決まっている。
 要領の悪い人間は、手からあふれるほどの仕事を押しつけられれば、一人で何とかしようと足掻くだけ足掻いて、結局、自滅してしまうものだ。対して要領の良い人間は、適度に周りの人間を巻き込んで、無難に(あるいは完璧に)問題を片付けてしまう。果たしてセインは、後者の人間だった。
 彼は、自分の補佐役であるシンシアに、身振りでいくつかの処理を任せると、すぐに真剣な表情をモニターの中のオブライエンに向き直ってきた。
「思いの外・・・。腹ん中でドンパチやってますんで、おいそれと火入れが出来ないんですよ。できればお二方に出張っていただきたく・・・」
 しかし彼の口から出てきたのは、相当に無遠慮な要請だった。
 オブライエンとガーフィールドは、就航半年にも満たない新造艦であるニルヴァーナにはもったいないほど、経験豊かな古参な人間であった。そんな彼らを、シモーネは若い連中をたたき上げるという名目で、レティ提督に泣きついて(あるいは過去の恥部に言及したりして)回してもらったのだ。そんな生き字引、神様的な存在の二人を、顎でこき使おうだなんて、そうと知れれば整備班の連中に袋だたきにされること請け合いだ。
 それを分かっているのか、モニターに映る若者は、少しばかり引きつった笑みをオブライエンに向けてきている。
 面白い奴だ。いい舵取りになるかもしれん。
 そう断じたオブライエンは、セインの申し出を受け入れることにした。
「わかった。ガーフィールドにも伝えとく。その代わり、高くつくぞ?」
 ニヤリと底意地の悪そうな笑みを浮かべる壮年オヤジに、空寒いモノを感じたセインは、次のボーナスは軽く吹っ飛ぶなと独りごちると、「肝に銘じます」と略式の敬礼を返して、通信をきるのだった。
 そして小さく溜息をついた彼は、頼りになる補佐役を振り返った。
「悪いシンシア。状況はどうなった?」
「・・ン〜、今・・終わった、よっと。
 左舷艦首パージによる艦の航行シミュレーションに問題はなさそうよ。これ以上、艦に損傷が出なかったらって条件付きだけどね。
 外の状況も終息に向かってるわ。ダメージコントロールもまもなく終了」
 シンシアの報告を聞いたセインは、ごくろうさんと一つ頷いてみせた。そして同じようにそれを聞いていたであろうもう一人の女性にも、肩越しに視線を送ってみせる。頼りなくも、頼もしい仲間であるクリスティン・ホークにだ。
「だそうだクリス。そっちの方は問題ないんだろうな?」
「〜〜〜〜〜〜〜ッ。
 は、話しかけないでく〜だ〜さ〜い〜〜〜〜〜っ」
 延びしろはあるのだが、要領の悪い人間代表みたいな性格であるクリスは、最早泣き笑いに近い表情を浮かべて、セインの問いかけに返してくる。
 彼女は今、コンソール二枚によるダブルオペレーションの真っ最中で、片方はシンシアのサポート(正確にはセインのサポートのサポート)。もう片方は、シモーネのサポートにと、忙殺の極みにあったのだ。しかもそのキーボード捌きの勢いは、足のつま先まで用いても足りないぐらいに目まぐるしい。
 第二十八ブロックにおいて、融合体をガルンローレの糸で絡み取ったシモーネは、お得意のプログラム改竄でもって、はやてのリンカーコアにバックドアを仕掛けたウィルスの無効化と、抑えられているはやての意識の覚醒に、全勢力を傾けている。
 そんな彼女をして難航させるプログラムの解析を、クリスはバックアップしているのだ。
 しかし、いつしかクリスは鼻唄交じりに作業をしていることに、そしてそんな自分を不可解な表情で見つめるセインとシンシアに気がついた。
 はやてを操るために送られてくる信号は、まるで戯曲につかう音楽のように、転調を何度も何度も繰り返してくる。その都度、暗号コードも変化するので調整が必要になるのだが、その調子に合わせていると、まるで自分が、指揮者と阿吽の呼吸を合わせる楽器奏者のような気分になってくる。
 だからクリスは、この信号を発信しているのはどんな人物なんだろう? と思いを馳せるようになっていったのだ。
 しかしいつだって現実は冷徹だ。
 『音楽鑑賞』に余念のなかったそんな彼女に向かって、シモーネの叱咤が飛んできたのである。
――A二十〜三十三までのモジュールにダミーを咬ませて沈黙させて。それで踏み台が出来るはずです。そこ経由ではやてさんの中に構築されたグリモワールにアクセス。管制人格である『リインフォース』とリンク後、並列処理でカウンターを仕掛けます。準備を!
 いよいよ、はやての中に組み込まれたウィルスの解体と、はやての意識の覚醒が図れる段階に到達したらしい。はやる心が抑えきれないのか、シモーネの口調の端々には、力が込められているがよく分かる。
 しかし、まるで学生時代にコッソリやっていた内職がバレたようなタイミングでシモーネの通信が入ったために、クリスはワタワタと取り乱してしまうのだった。
 もちろんシモーネに叱りつけられたわけではないので、純然にビックリしただけなのだが、シモーネのサポートもそこそこに、自分はいったい何をやっているんだろうと、後ろめたい気持ちがわき起これば、意気消沈してしまう彼女である。
 しかしそんな彼女の態度に不信を抱いたシモーネが、
――どうしたんです? クリス?
 と問い質すので、クリスは大慌てで「何でもないですぅ!」と返事をする。
――しっかりなさい。ここ一番の大勝負なんですよ。あなた抜きでは為し得ない大事な場面なんですから。頑張りましょう!
 シモーネの口調には、クリスを責めるような色合いは少しもなかった。むしろ共闘することを楽しみにしていると言わんばかりに、弾んでいたのである。
 クリスは、まだまだ駆け出しのヒヨッコ同然の身の上だ。そんな彼女が、歴戦の元執務官と轡を並べられるような機会に立ち会えるなんて、どうして考えることが出来るだろうか。ましてや期待されるなんて恐れ多いことこの上ない。だから、
 ひょっとしたら、いつもの上がり症で期待を裏切ってしまうなんてことも・・・。
 と考えてしまったとしても、何ら不思議ではなかったのだ。
 しかし、今はそんな気弱なことを言っていられる場面ではなかった。
 自分の頑張りがなければ、はやてらヴォルケンリッター達を救うことは出来なくなる。あんなにも強くて、あんなにも心優しい彼女たちを、自分の不甲斐なさから不遇な環境に追いやることになるかもしれないのだ。それは一生、どんなに悔やんでも悔やみきれない傷跡となって、自分を苛むことになるだろう。
 後悔なんかしたくない! するもんですか!
 心に灯った小さな灯は、一つの決心で大きく燃えさかり始めた。
 だからクリスは力強く、シモーネの言葉に「了解!」と力強く返事してみせたのだ。
 それはおっかなびっくりで、たどたどしい一歩だったのかも知れない。しかし大きな階段を自分の力で踏み越えてみせた、確かな一歩だったのだ。

   ◇

 実際のところ、その兆候は朝起きた時から現れていた。
 低血圧なわけでもなく、普段ならばスッキリと目が覚めるのに、その日に限ってはなかなか目が覚めなかったのだ。勿論、めっきり寒さが身にしみる季節柄。来客用に用意された、寝心地バツグンの羽布団の誘惑から逃れることは、かなりの精神力を要したのもまた事実。でも明らかにそれとは違う理由で目覚めが悪かったのだ。
 しかしいつまでもそうしているわけにもいかないだろう。友人宅にお泊まりしている手前、グズグズしているのはカッコワルい。
「む〜〜〜・・・・・」
 羽布団の誘惑にあらがい、気怠い体に鞭打って、何とか寝床から這い出した。
(よだれは垂れてないよね・・・)
 寝ぼけ眼でそんなことを考えつつ、ペタペタ口元をさすってみる。
(ウン大丈夫。平気みたいやな)
 そのまま離れたがらない目蓋をグシグシ擦り、腕を伸ばしてウ〜ンと思いっきり伸びをした。脱力。ふーっと溜息をつくと、途端、クラッと目が回る感覚。まだ寝ぼけているらしい。ヘンに抗っても仕方がないので、そのまま仰向けにポテンと羽布団に倒れ込む。
(起き抜けにこんなグダグダしていると、なんやみんなに悪い気がするなぁ)
 そんなことをボーッと考えていたところへ、メイドのファリンが元気な朝の挨拶とともに現れた。そんな彼女の明るさが、この日ばかりはちょっとだけ恨めしく思えた彼女だった。

 クッキーを焼いている最中も今ひとつだった。
 いつも以上にパワフルな級友に振り回されるようにして作ったそれは、及第点と言える代物に仕上がってしまった。
「初めてのデートに赴く感想は?」
「次のデートの約束もすんのよ?」
「間接キスもこの際だからやってみる?」
 ことある事にそうやってはやし立てられれば、ちょっとばかりしくじって当然! その様に良いわけをしてみたものの、振り返ってみれば、そのような茶々を許すほど、注意が散漫になっていたのが原因だ。
 現場に赴く車内においても、それは顕著だった。
 友人達の他愛もない会話は心底楽しかった。しかしどこか今ひとつ身が入らなかったのも、また事実だった。
 そしてあろうことか、リンカーコアにウィルスを仕込まれるという大失態まで、しでかしてしまったのだ。
 普段の彼女であれば、ここまでの不手際を連続して起こすなんて考えられない事だった。
 だが総じて考えてみれば、全て『それ』に結びつけれて考えれば、納得することが出来たのである。

 『それ』の発達に関しては個人差こそあれ、彼女、八神はやての場合は特別だった。
 なにしろ闇の書の呪いからの解放により、まるで、せき止められていたダムが決壊したような勢いで確実に、そして性急に、体の回復に合わせて発達、成長し始めたのだから。

 そして『それ』が訪れたのは、家族団欒の最中だった。
 突然、顔を青ざめさせ、下腹部を抑えて蹲ったはやての姿を見た家族の面々は、皆一様に混乱してみせたものだ。なにしろその痛がりようは、闇の書の呪いに苦しんでいたのとは比べものにならないぐらいのモノだったからだ。更には、これまでの長きに渡る生涯の中で、そのような状況に立ち会ったことが無かったのも災いした。
 誰もが「病院へ!」と慌てふためき取り乱す最中、騒ぎの渦中にあったはやて自身の方がむしろ冷静だった。
「シャマル・・悪いけどここに電話して・・・。今時分なら、こっちいると思うから・・・」
「え? あ、は、ハイ!
 ・・もしもし? 夜分に申し訳ありません。あ、はいシャマルで・・・」
「何でも良いから早く来やが・・じゃなくて早く来てください! はやてが、はやてが大変なんです!」
 シャマルの受け答えももどかしく、受話器を引ったくったヴィータは、自分でも驚くほどに声を荒げて見せたモノだ。しかし電話の相手が誰であるか知ると、その声は一気にボルテージを下げ、猫を被ったように大人しくなった。
 そしてそんな彼女の調子にただならぬモノを感じとったのか、電話の相手、高町桃子は一時間と掛からずに長女の美由希を携えて八神邸に駆けつけてくれたのだ。
 この様な『当たり前』の些末ごとで、病院にかかるのは大事が過ぎるし、普段から忙しいであろう石田女史に頼るのは気が引ける。ハラオウン家にしても同様。管理局の仕事が忙しいであろうから、無用な心配を掛けたくない。
 以上の理由から、はやては喫茶『翠屋』に連絡をとり、高町母娘に来てもらうことにしたのだ。
「とにかく部屋を暖かくして、毛布にくるんで暖めてあげて。だからってお風呂に入れちゃダメよ」
 しかし受話器を手に要領を得ないヴィータから、半ば無理矢理受話器を奪ったシグナムが事の経緯を説明すると、自称『はやての三番目の母親』を謳うだけあって、桃子の指示は簡単且つ、的確だった。
 暖めるイコール風呂に入れる。
 という浅慮な選択をしないように、釘を刺したのも流石と言えただろう(特にシャマルへの牽制の意味合いが強い)。
 そうして二人が駆けつけるまでの間、ヴィータなどは三つ編みをブンブン振り乱して、落ち着かなかったのは言うまでもない。
「こんなに血出して痛がってんだぞ〜。本当にこんなんでいいのかよ〜」
「桃子さんがそう言ってるんだもの。信じるしかないじゃない!」
 はやてを居間のソファに横たわらせ、お腹に用意した湯たんぽをあてがう不安そうなヴィータに、シャマルがきつめの口調でたしなめた。
「でもさー」
「とにかく落ち着け。主の耳元で騒いでも、いたずらに不安にさせるだけだ」
 といいつつ、桃子達の到着を今か今かと、落ち着かない様子で玄関を見やるシグナムだ。そんな態度と言葉が癪に障ったのか、
「うるせーよ、役立たずのおっぱい魔神!」
「・・貴様・・・ッ!」
 直後発生したシグナムとヴィータの睨み合い(デバイス起動状態)を収拾したのは、息せき切って駆けつけた桃子の一喝であった。
 そして騒ぎを起こした当の本人達は、足腰が立たなくなるまで玄関ホールの石畳の上に正座の刑に処せられ、そんな二人を、ザフィーラが何も言わず見つめているのだった。

 はやての『それ』は、やや特別の嫌いがあった。
 周期や程度の差こそあれ、大半はややもすれば安定していくものなのだが、彼女の場合は全くそれに当てはまらず、短い周期と重度の痛みを伴って現れるのだ。
 定期検診で海鳴大学病院を訪れた際、石田女史に相談してみたものの、流石に専門外でもあったため、しばらく様子見としかアドバイスはもらえなかった。
 何故なら、成長途中にある体内器官に対して外的治療を施すということは、余程のことがない限り良い結果を伴わない。まして、はやては下半身麻痺からの回復途中でもある。それらを鑑み、大半が安定をみるだろう半年間は様子を見ようというのが、石田女史の意見だったのだ。
 勿論、不安もあるだろう。そう言うときにこそ『母親』という存在は何よりも頼りになるのだが、彼女にはそれがない。
 だから周りが気をつけ、気を配ってほしい。
 そう石田女史がアドバイスをした矢先、はやては思ってもみない形で事件に巻き込まれ、そして『それ』は、絶妙のタイミングで疼き始めたのである。

  ◇

「・・すごいね・・・。こうも簡単に魔力を練ることができるなんて・・・。
 この形態、気に入ったよ」
 流暢な発音で、言葉を口にしてみせるその女は、足下に魔法陣を展開しながらつぶいた。しかしその姿は一糸まとわぬ裸身のまま。
 だがその様を黙って見つめるアルベルト・ターナーの表情は、腫れ物をみるような険しいモノだった。それは決して不眠不休、不摂生の結果とは言い切れない、凄みのこもったモノだった。
 そんなアルベルトの心中を知ってか知らずか、女は自分の長身痩躯に興味津々のようで、その場でクルクルと回るわ、飛び跳ねてみせるわで、落ち着きがないことこの上なかった。
「ゼラ。お楽しみのところ申し訳ないけど、その辺で切り上げてくれないか?
 そろそろ予定の時刻だ。そうだろう? アルベルト」
 アルベルトの横にあって、女にそう声をかけたのは、短く刈り込んだ真っ白な髪と真紅の瞳をもった少年だ。その彼がアルベルトに確認するように、目顔で問うてくる。
 しかしアルベルトは、それに答える義理はないとばかりに顔を背けたので、少年は小さく溜息をつくのだった。
 そんな少年の態度などまるで意に介していない女は、ご機嫌な口調のまま振り返り、
「わかってるよゼロ。でもようやく窮屈な生活から解放されるんだ。お前だって分かるだろう? 気分がいいってもんだよ」
「ふふ。そうだね」
 白目がなく、黒光りする爬虫類のような目を愉悦のそれに歪め、ゼラフィリスは肩に掛かる長く美しい、そしてサラサラという音が聞こえそうなほど艶やかな髪を、満足そうにかき上げてみせた。
 だがその仕草が癪に障ったのか、アルベルトの厳しかった表情に、更に険しさが加わった。それはそうだろう。彼は大事な一人息子を目の前のバケモノどもに人質にとられ、彼らが自由を手に入れるために必要なデバイスの開発を強要させられたのだ。面白いはずがない。
「すまないアルベルト。あなたには感謝しているよ。よく僕らの基本体と、デバイス三機の開発に尽力してくれた。そして、管理局の目を欺いて匿ってくれたことにもね」
 最大限の賛辞を持って感謝の言葉を口にしたゼロは、右手を差し出してみせた。
 しかし今のアルベルトにとって、そうした友好的な態度は神経を逆撫でるだけだったのだ。
「いけしゃあしゃあと言ってくれる! 息子を盾に、よくもこれまで・・・ッ!」
 だからアルベルトは、それを蛇蝎を見るようにして払い除けたのだ。
 友好の印として差し出した右手を邪険に扱われ、しかしゼロは気にした風でもなく、さするに止めた。アルベルトの心中が何となく理解出来たからだ。
 そんなゼロを視界から無理矢理追いやったアルベルトは、医療用羊水をたたえたシリンダーに振り返り、その中で胎児のようにして浮かんでいる息子、アーネストの姿を万感の思いをもって見つめるのだった。
 シリンダーの中でたゆたうアーネストの姿は、つい先ほどまで身の丈二mあまりある獣人であったとは信じられないほどに、極々当たり前な青年の姿をしている。
 どれほどこの日が来ることを待ち望んだことか・・・。
 ゼロとゼラフィリス。そしてこれまで一言も語らず、彼らから少しばかり距離を取って見つめているゼムセロス。このゼーレと名乗る三人の魔法生物が、アーネストの体の中に潜んでいたために、アーネストの体は体質変化をさせ、獣人と化してしまったのだ。
 そんなゼーレから息子の体を取り戻すため、アルベルトは辛酸を舐めるような、苦渋の日々を送ってきたのだ。だがその苦労もようやく報われる。感慨もひとしおであろう。
 しかし気がかりなのは、あまりに長い時間ゼーレと共にあったため、アーネストの身体機能やDNA、果ては精神汚染などによる人格崩壊などを起こしていないかと言うことだった。意識を取り戻した際、自分がよく知る息子と全く別の姿があるなんて考えたくもなかったが、その可能性を完全に拭い去ることが出来ず、アルベルトは不安に苛まれ、胃が痛くなる思いだった。
 医療用シリンダーに歩み寄り、備え付けられたモニターを覗き見ると、今のところ脳波、脈拍、アストラルパターン、リンカーコア、全て正常(一般的成人男性との比較)と表示されている。DNAの精査はまだまだ時間が掛かるし、精神汚染があるかどうかは意識が覚醒した後の話となる。どちらにせよ一朝一夕で分かるようなことではない。
 だが、何はともあれ、自分は山を一つ乗り越えたのだ。
 シリンダーの特殊ポリマー越しではあるが、ペタリと押し当てた掌から息子の体温を感じた気になったアルベルトは、何年も浮かべていなかった満足の笑みを、その顔に浮かべたのである。
 だが、そんな一時の充足感も、長くは続かなかった。
「アルベルト。悪いがまだ全てが終わったわけではない。最後の手筈が残っていることを忘れて貰っては困る」
 禿頭のゼムゼロスが、慇懃に声をかけてきたことで、アルベルトは我に返った。
 そうだ。最後の大詰めがまだ残っていた。これが終わらないことには、自分も、アーネストも、真に自由になったとは言えはしないのだ。
 忌々しい亡霊どもめ。今すぐその未練を断ち切ってやる!
 アルベルトは復讐に取り憑かれた鬼のような形相を、その顔に浮かべ、三人を振り返ったのだ。
「・・わかった。では残された最後の計画を始めよう。お前達のデバイスを、そこの評価台へ」
 部屋の片隅に据え付けられている、三台の装置を指さした。
 最後の計画。
 それはこの研究施設に火災を起こし、その騒ぎに乗じてゼーレと名乗るこの三人を、世に解き放つというモノだった。
 しかしそれには、あくまで事故であるという様相を呈する必要があった。
 そもそもアルベルトが開発した三機のデバイスは、ゼーレとアーネストの関係を断ち切るためだけに生み出されたモノである。
 今後一切、ゼーレとの関わり合いなど持ちたくなかったアルベルトにしてみれば、火災によって跡形もなく、データや資料もろともすべて燃え尽きたことになれば、知らぬ存ぜぬを貫き通しやすくなる。
 それには『実験中の不慮の事故で発生した火災』でなくてはならないのだ。
 素直に放火してまわったようでは、責任追及のあげく、損害賠償まで抱え込む事になるだろう。まかり間違えば、開発したデバイスを秘匿、もしくは武器密売組織への横流ししたなどという、入らぬ嫌疑まで被ることになりかねない。
 だから是が非でも実験に失敗したという事実が、アルベルトには必要だったのである。
 その問題を解決するため算段を、アルベルトは既に立てていた。それがデバイスへの過負荷を加えた条件下における実験だったのだ。
 全く新しい概念で処理速度の向上を目論んだ。というふれこみで、アルベルトはデバイスの開発を進めてきたのだ。だからそれを証明するために、大なり小なり、過負荷を加えた条件での実験結果がどうしても必要となる。机上の限界値以上の負荷が加えられたモノとなれば尚更いい。
 そんな評価実験中の不慮の事故となれば、不審に思う者などいないだろう。
 そうして、アルベルト最後の大博打が打たれたのである。

 実験を開始してから数十分後。
 自画自賛するわけではないが、思いの外、高い評価を示してみせるデバイスに、アルベルトは知らず満足の頷きをして見せていた。
 『使い魔使役によるデバイス処理能力の向上』というコンセプトは確かに新しかった。しかしあまりに異端であったのも事実で、開発初期段階、開発部の何人もの人間からあしざまにもされたし、見向きも、顧みられることもなかったものだ。
 技術者として、誰にも注目されないことほど悔しいモノはない。しかしアルベルトはそれでも構わなかった。
 理解してくれるのは一握りの人物だけで、息子と妻だけで十分だ!
 そう言い聞かせながら開発に取り組んだ彼は、いつしか孤立していった。
 しかし何が災いするのか分からないのも世の中だ。
 忌避され、孤立した結果、今この評価施設を利用している研究者は、アルベルト意外にいなかったのだ。これならば、火災が起こっても、誰も巻き込むこともないだろう。
 そんな心配を他所に、アルベルトが向き合っているコンソールには、デバイスの評価結果が、刻一刻と表示されていった。
 今は、AA級のインテリジェント・デバイス相当と評価が行われている。しかしデバイスは、余裕綽々で処理結果を返してくる。その様は、まだ余裕がある。といわんばかりで、頼もしい限りだった。
 その結果に軽い興奮を覚えたアルベルトに、ゼロが実験助手用のコンソールを操りながら問いかけてきたのは、そんな時だった。
 初めて作り上げたデバイスが高評価と言うこともあり、水を差されたような気分になっても当然。更には、アルベルトにとって彼らは忌むべき存在。文字通りの鬼子だ。だからさもめんどくさそうにして、アルベルトはゼロの問いに耳を傾けたのである。
「ニンゲンとは一体何なのだ・・・?」
 しかしゼロの口から投げかけられたその質問は、あまりに意外で、質問された側のアルベルトは虚を突かれる形となり、思わず数瞬の間、惚けてしまうこととなったのだ。
「に、人間とは人間だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 しかし、僅かな動揺でも見せたくないと思ったのだろう。アルベルトは慌てた様相を取り繕うのもそこそこに、突き放すようにして答えてみせたのだ。そんな哲学的なことを、これまでに考えたこともなかったというのもあったからだ。
 しかしそれは、ゼロがほしかった答えではなかったらしい。クッと右の目を細め、力のこもった目線をアルベルトに向けながら、ゼロは再度問いかけてきたからだ。
「聴き方を変えよう・・・。
 君の息子と共にあった時、君の息子は『僕はニンゲンだ!』と繰り返し叫び続けていた。自我を保つため、そうすることで自己を繋ぎ止めていたらしい。
 僕らにしてみれば、生きていればなんだって同じだ。一個の細胞片からでも再生が可能で、どのような生物の形態にも擬態することが出来るようになった。だから一つの形態に固執する意味が分からない。
 なぜニンゲンでなければならない?
 生きていれば、どのような形態であろうと同じではないのか?」
 まさかこの様な場所で、そのような哲学論について問い質されるとは思いもしなかったアルベルトは、ゼロを惚けた顔で見つめ返すがままになっていた。それより何より、生まれ落ちて僅か数年という異形のモノが、そんなことを考える知恵を身につけたということに、魂消たのだ。
 ゼロが問うたその問いの本質は、詰まるところ自分は何者なのか? と問い質すのと同じものだった。
 しかし前述の通り、哲学的なことは考えたこともないアルベルトである。そんな事は知らないと突っぱねることも出来た。
 だがゼロは、わざわざ問い返してきたのだ。それを突っぱねるということは、小さな幼子が、何故? どうして? と問いかけてくるのを知らないと突っぱねるのと同義で、それは、情操教育上やってはならない事でもある。
 だから、二人の子供を育てた経験のあるアルベルトとしては、今ここで、ゼロの問いに真剣に取り組んでおかなければ、後々、災いを呼び込むことになるかもしれない。と、思い直したのだ。
 そして彼は、科学屋らしいモノの考え方で思考し、答えてみせることにしたのである。
「お前に『自分』というモノの定義が出来るかどうかは、あえて聞かない。
 だが『それ』は、己を形作る入れ物、即ち体の中で起こる化学変化の連続によって成り立っているまやかしだということを理解しろ。
 例えるなら映画のフィルムだ。一コマ一コマが化学変化の一瞬を切り取ったモノとしよう。その一コマ一コマを繋げて再生すれば、それは一つの意味を持った映像となる。
 それが『自分』という存在だ。しかし再生をやめてしまえば化学変化はそこで停止し、映像も停止する。それはそのまま『自分』と言う存在が消えて無くなることと同義になる。
 更に言えば『自分』という存在は絶えず変化する。成長しない生物などいないからな。赤ん坊は十年しても赤ん坊のままの分けがあるまい?
 そんな曖昧な『自分』という定義の前に、『人間』という括りは、果たして意味があると思うか?」
 化学変化の一瞬の世界において、それは全てだ。それ以上でもそれ以下でもない。そんなマクロ的な世界からみれば、人間であろうと動物であろうと、はたまた植物あろうと全て同じなのである。
 極めて暴力的な論理で、強引にそう結んでみせたアルベルトの言葉に、果たしてゼロは、
「よく分からない・・・」
 とだけ、少しばかり惚けたような表情で、そして素直に答えてみせたのだ。
 それは、呪う対象でしかなかった彼の、意外な一面としてアルベルトには映ったらしい。だから我知らず、年若い部下に言い聞かせるように、力強く頭を撫で回していることに気がついた彼は、次の瞬間にはものすごく気まずそうな表情を浮かべたのである。
「・・分からなければ考えろ。考えて考えて考え抜け。
 考えて思い悩み続ける限り、それは人間的であることの証明となる。それが出来るのは人間だけだからだ。
 そしてそれをやめた瞬間、お前はそこらの畜生どもと同じ存在となるだろう。
 思い悩め。生きて考えろ。
 その先に、必ず道はあるはずだ」
 知恵を手に入れ、楽園を追いやられたのは人間だ。
 そして人間は、思い悩み、生きて考えながら、文明を栄えさせてきた。その最中には争いの瞬間があった。言葉の限りを尽くしても出来なかった和解は、やがて手にした武器によってもたらされることとなる。だがその中には、何も得られず、自滅していったモノも少なからずあったはずなのだ。
 アルベルトの言葉は、呪いの言葉だった。
 知恵を与えることで、出口のない迷路へと追い落とし、自滅の道を選択させるべく含まされた遅効性の毒だった。
 やがてその毒は、満遍なく彼らゼーレの面々の中に染み渡り、誤った選択をさせるにちがいない。
 復讐。
 そうだこれは復讐だ。アルベルトがようやく掴んだ復讐のチャンスだったのだ。
 意図せず、彼が撒いたその種が、芽吹いて実をつける頃には、彼の寿命は尽きているかもしれない。しかし魔導師でもない彼が、魔法生物である彼らゼーレに出来ることなどそう多くあるはずもない。
 だからそれは、彼が彼らに出来る、痛烈な仕返しだったのだ。

 煌々と照りつける銀色の月明かりを浴びて、三人の人影がゆっくりと、夜の街の往来を進んでいく。
 その姿は奇異に映るが、夜の街中にあってはそれもその限りではなかった。
 振り向けば、遙か彼方の夜の闇が、茜に染まって揺らめいている。
 そこには、時空管理局の研究施設が存在していて、これまでにない規模の火災が発生しているらしい。
 しかし三人にとって、そんなことはどうでも良かった。どうでもいい問題だった。
 やっと手に入れた大きな力と、自由になる体。
 損なわれても、失われることのない知識と経験。
 それに比べれば、身の回りで起きている出来事の、なんと些細なことであるか。
 だがしかし、彼だけは少しばかり違うようだった。
 三人のうち、もっとも年端のゆかない少年は、ゆっくりと茜の染まる空を振り返って、一言呟いたのだ。
「決めたよ。ゼム、ゼラ。
 僕は・・ニンゲンになる」

   ◇

 トントン。

 閉じていた扉を軽くノックされたような気がして、彼女は振り向いた。
 そこは暗い暗い闇の中だった。
 キョロキョロと、首を巡らしてみる。しかしどこにも扉のようなモノは存在しなかった。
「・・・?」
 不思議そうに首を捻ってみる。
 気のせいか・・・?
 そう思ってみたところで、なんだか目蓋重くなってきた。
 目を覚ましちゃいけないよ。まだ眠いだろう? だからお休みよ・・・。
 そんな誘いに誘われるがまま、再び眠りにつこうと彼女の意識が混濁し始めたその瞬間。

 トントントン。

 ノックの音が三回、続けざまに響いたのだ。
 それに驚き、そして彼女は飛び起きた。
 音は『闇の外』から聞こえてきたからだ。
「誰? 誰なん?」
 不安に駆られ、思わず口をついて出てきた声は、悲鳴のように強張った大きなモノだった。それ自体に少しビックリした彼女は、今度は幾分抑えた声で「誰ですかー?」と問いかけた。
「おはようございます。お寝坊さん」
 聞こえてくるのは、たおやかで酷く安心できる声だった。それを聞けば、無条件で心が安らいだ気分になる、優しい優しい日だまりのような声だった。
「起きてくださーい。起ーきーてー」
 聞こえてくるのは、物静かな声だった。蚊が鳴くような小さな声だが、しかし煩わしさはこれっぽっちもない。でもひどく優しい気分になる声だった。
「起キテクダサイまいすたー。起キテ起キテ起キマショー」
 聞こえてくるのは、目覚ましみたいな声だった。抑揚も、感情のない無機質な声だった。でもどこか懐かしくて明るい気分にさせてくれる、すてきな素敵な声だった。
「起きて。起きて。起きて」
「起床。起床。起床」
「起ーきーなーさーいー」
 やがてそれは、ワンワンと鳴り響く教会の鐘のように、彼女の耳朶を打ち鳴らす。
 う〜。うるさい〜。なんや起きたくても、起きれない時だってあるんや〜。
 思わず耳をふさいで、彼女はうずくまった。でも気がつくと、いつの間にか起きるように促していた声は聞こえなくなり、代わって、ワーンという耳鳴りと共に血が下がり、目が回るような感覚が襲ってきた。
 その感覚は何度か体験したことがあるので覚えていた。
 それは酷く酷く憂鬱な気分にさせる、できれば向こう十年は覚えたくない感覚だったのだ。でもそれは、情け容赦なくさざ波のように押し寄せてきて、彼女の下腹部に鈍痛を走らせた。
 痛い。いたい。イタイ。
 それはシクンシクンと、畳針のような太くて長い針を突き刺すように、痛みで存在を訴えてくる。
 うるさい。だまれ。自分の言うこと聞かへんもんいらんのに!
 シクン。シクン。シクン。
 いたい。イタイ。痛い。
 彼女はその場にお腹を抱えるようにしてうずくまり、その痛みが峠を越えるのをジッと待つことにした。
 ヌルリとした嫌な感覚。そして鉄さびのような臭いが立ちこめる泥沼の中心で、彼女はジッと待つことにした。
 そして彼女は気がついた。
 自分の隣で同じようにしてうずくまり、同じように苦しんでいる影のようなモノがあることを。
 そしてその影もまた、ウンウン呻りながら悶え苦しんでいた。
――なんなんだこれは。なんなんだこれは。なんなんだこれは。この痛むものはなんなんだ! こんな痛みを生み出すモノは一体なんなんだ。何故ニンゲンはこんなモノを後生大事にしているんだ。いらないだろう。こんなもの!
――そやねぇいらないねぇ。言うこときかへんもんはいらないねぇ。でも人にいらないもん、これっぽちもないんやよ。これだって大事な大事なもんや。そりゃ憂鬱になるくらい酷い時もあるけどな。
――大事だって? これが? こんなのモノが?
――大事やよ。これがあるから、自分は生きてるんだって実感出来るんや。新しい自分に、いま生まれ変わっていってるんだって実感出来るんや。
――新しい自分に・・生まれ・・変わる・・・?
――うん、そうや。それってすごいことやろ? んでももっと凄いんは、『そこ』は新しい命を作り出せるってことなんよ? 無から有を生み出せるんや。どんな魔法だって成し得ない最高の魔法なんやで。それってなんやごっつスゴイ事だって思わへん?
――・・よく、分からないな・・・。
――あー・・まぁそうなんやろーね。これだけは男の子にはわからんやろーね。女の子だけが許された魔法やもん。ある意味もーこれは特権やね。そりゃ時々この特権を、熨しつけて神様に返したいーって思うけど、でもこれは人間ですいう証でもあるんよ。
  それにな、これっくらい痛いのなんか我慢しなきゃ、罰が当たると思うんよ。それまでの自分にはなんにもなかったのに、なんでも話せて、聞いたげられる家族をくれて、一緒にいて楽しい友達を何人もいっぺんに寄越してくれて、その上、体も元通りにしてくれるいうとるんやもん。感謝しなきゃこれは嘘やで。
――分からないよ。君の言ってることは。何にも・・分からないよ・・・。
――分からないんやなくて、分かりたくない・・だけなのかもしれんね。違う? レイ君。
――・・っ!
 はやてがのぞき込むようにして影に囁いたその瞬間、まわりを包み込んでいた闇が、突如として消え去った。まるで電灯を点して、闇を取り払ったかのようにだ。
 そしてそこには空間だけが残ったのだ。どうしようもなく広くてがらんどうな、空っぽな空間だけが、そこに存在していたのだった。
 はたしてその空間は、空虚なゼロの、心の在りようを現したものだったのかもしれない。

   ◇

「バックドアを仕掛けていた改竄プログラムの隔離に成功! リインフォースの誘導に沿ってはやてさんの自我境界線グラフの反転を確認! はやてさんの意識が覚醒したようです! よかったーっ!」
 モニターに釘付けになっていたクリスは、思わず諸手を挙げて狂喜してみせた。
「まだ油断は禁物だわよクーリースッ!」
「わ、わかってるよシンシア! は、話しかけないで!」
 飛び跳ねんばかりに喜ぶクリスに、ブリッジの反対側に座るシンシアの横槍が入れられる。だから頬をプックリふくらませて抗議するも、クリスの表情はどうしたって歪んでしまうのだ。
 そんな彼女を見やり、しょうがないわねー。と溜息をはき出してみせたシンシアだったが、そんな自分に向けて、仕事しろとばかり、攻めるような目線を投げ掛けるセインに気がつけば、申し訳なさそうに居住まいを正すしかない。
 そんな彼女たちの有様に、ヤレヤレと溜息をついたセインだったが、
「流れはこっちに向いてきたみたいだな。この勢いを利用しない手はないか。
 各セクション。現状知らせ! 一気に立て直すぞ!」
 僅かな運気の趨勢に敏感でなければならないのは、何も勝負師ばかりではない。
 臨時の艦長代理権限を有することとなったセインとしても、艦の運用効率が、軒並み六割を下回っていた現状を盛り返すには、この機に乗じる外ないと判断してみせたのだ。



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