魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−


 粘土質の岩くれが立ち並ぶ荒野のような上空を、風を切って彼は空を飛んでいた。
 全身を黒一色のスーツ、スラックス、帽子、手袋で着飾り、その上から黒一色のコートに身を包み隠している。唯一の例外はスーツの下に着ているYシャツと、襟に巻いているスカーフぐらいである。
 彼が件の魔法生物の一人であった。
 そしてこれまでの魔法生物と趣を異にするそれ、インテリジェントデバイスを間違いなく、しっかりとその手に握り締めていた。
 デバイスは黒檀の杖のように黒光りした造りになっていて、突端の拳大の青い水晶のような宝玉は、三本爪のような真鍮の飾りで固定されている。傍から見ると、ちょっと趣味の悪いステッキといった風情だ。
 だが、それは間違いなくミッドチルダ様式の魔法を行使するインテリジェントデバイスであった。その証拠に青い水晶の表面には警告を示す文字が、浮かび上がっては消え、明滅を繰り返している。
 果たしてデバイスの忠告どおり、男の前方に人影が二つ、浮かんで見えた。シグナムとシャマルの二人である。
 二人は次元震の発生地点に赴いたのだが、その途中で、現場から高速で離れる人物を捕えたと、クリスから連絡を受け取り、先回りしたのだった。
 男は飛行速度を落とすと、二人の目の前、三十m程度離れたところで止まってみせた。
「・・時空管理局の方・・かな?」
 男は明瞭に聞き取れる言葉をしゃべり、目深に被っていた帽子を右手で取ると、胸に当て礼をした。まるで舞台俳優のような優雅な礼を。だ。
 その仕草を見る限り、そんじょそこらの魔法生物と同等とはとても思えない。だが面を起こして二人に向けるその眼差しは、間違いなく黒光りする爬虫類のそれだった。見る者が見れば、嫌悪の表情を浮かべてしまったかもしれないが、ヴォルケンリッターの二人はそんなことはなかった。悠然と睨み返す。
「如何にも。時空管理局特別捜査班に属する者だ。
 我らがここに赴いた理由は、承知していると・・受けて良ろしいか? Der Herr(ミスター)?」
 口元に笑みを浮かべて、シグナムが口火を切った。甲冑を着込んだ彼女は凛々しくも勇ましい。そして素材としても中々である。指南役として入っている剣道場で、その笑みに絆され痛い目にあった男衆は数知れない。
 だが相手は人ならざる者。そんな視覚心理戦は通じない存在だった。
「ほう・・・。私如きを紳士扱いしていただけるとは、なかなかどうして出来ることではありませんな」
 黒光りする目を笑みのそれに代えて、男は慇懃に返してきた。その仕草、立ち居振る舞いは、とても魔法生物とは思えないものだった。しかしその裏で、どのような権謀術数をめぐらせているというのか。しかしその表情からそれらを伺い知ることは困難であると知れた。
 しかしちょこっと天然が入りはじめたシャマルは、そこまで考えが至っていない様で、
「事は穏便に済ませたい。それが時空管理局としての考えですから」
 とにこやかに返したのである。
 それには同行しているシグナムも、若干気勢を削がれた表情を浮かべてしまう。
 対する男の方も、素直にそのまま返されるとは思わなかったのか、一瞬途方にくれるような間を空けることとなった。
 その間に、何かおかしな事言ったかしら? と不思議そうに二人を交互に見やるシャマルに気がついた男は、忘我の極みから復帰するや、咳払い一つ。
「・・なるほどなるほど。フロイライン方の言うこと至極ごもっとも。
 それで、私が持つこれを渡せと・・仰るかな?」
 どうにか心の平静さを取り戻した男は、喉を鳴らすような笑いを洩らしつつ、デバイスの杖の先から、ロストロギア『セフィロトの枝片』三つを取り出してみせると、二人の目の前に悠然と曝け出したのである。
 なんという豪胆さだろう。自暴自棄によるものではない証拠して、取れるものなら取ってみろ。と言わんばかりの眼光がそこにはあった。
 本当にこの男は魔法生物なのだろうかと疑ってしまうほどである。
「セフィロトの枝片、gT ケテル(王冠) g\ イェソド(基盤) g] マルクト(王国)と確認した。
 残りの一つはお仲間が持っているわけだな?」
 だが常に冷静さを失わないのは、シグナムとてお手の物だ。いささかペースを乱されはしたが、冷ややかな視線をロストロギアから男の方へと移していった。それを身じろぎもせず男は真っ向から受け止め、
「左様。gY ティフェレト(美)ですよ。合計四つがこちらの手の内にある。
 そしてそちらはgV ビナー(理解)をお持ちのはずだ」
「ほう。よく調べているじゃないか」
「なに、ほんのちょっとマメな性格をしているだけの話です」
「・・だが、こちらにそれを引き渡すつもりはない・・わけだな」
「如何にも。我らは慈善でこれを集めているわけではないのでね。
 むしろそちらのビナーを、我々にお渡し願いたいのだが・・・」
「法の番人たる我らが、そのような戯言に耳を傾けると思うか?」
 男の要求を、シグナムはにべも無く切って捨てた。
「いったい何のためにそれを集めている? 目的はなんだ?」
「そうです。あれは危険なものなんです。
 どのような理由があるにせよ、一度我々にそれとご自身を預けてください。
 そうすればきっとお互いに良い結果を生む事が出来ると思います」
 シャマルが一歩踏み出しながら説得の言葉を投げるが、男はそれを受け取る気はさらさら無かった。
「それは出来ない。出来ない相談ですよフロイライン方。
 我等の目的は、あなた方には到底理解できないものですよ。
 我等の身とセフィロトを預ける? 冗談ではない。
 預けたら最後、我らは細胞の一片にまで切り刻まれ、調べつくされ、挙句の果てには廃棄処分とされるでしょう。
 そしてセフィロトは、二度と我等が手にする機会を与えらずに厳重封印を施され、どことも知れぬ閉鎖空間に置かれることとなる。
 フロイライン。
 あなたの言うとおり『危険なモノ』として・・ね。
 そうなる事が分かっていて、何故、あなた方に我等の身を預ける事が出来ましょうや」
 男は投降後の、自身の行く末を語ってみせた。自らが実験対象として作られた存在であるが故に、その末路は重々承知という事なのだろう。
「でも、時空管理局はそのような非人道的な行為をする組織では・・・!」
「違いありませんよ。フロイライン。
 人間は、人間で在らざる者を忌避するものなのです。自身の細胞から作り出したクローンやバイオロイドといったものでもね・・・」
 シグナムは、先の会議でシャマルがあげた懸念事項を思い浮かべた。
 シャマル同様、その人物の出生に関する資料を、特別捜査班のOJTとして取り上げられたプレシア・テスタロッサによる一連の事件資料の中から見出したのが、事の顛末である。
 資料にはこうあった。プレシアは当初、実の娘アリシアを復活させるために、アリシアの細胞を元にして彼女を作成したという。しかしアリシアが持っていたモノとはまったく別の能力特性を現し、そして自身が望むものとは全く違う存在になって行く彼女に対して、プレシアは憎悪にも似た感情を持っていったという。
 それは作られたモノが背負う宿命、とでも言えば良いのだろうか。
 否。と唱える者はいるだろう。だが目の前にいるのは、そのような宿命の元に生まれてきた者たちだ。どのような言葉も、薄っぺらい感情論としか受け取れないのも無理は無かった。
 こんな時、彼女はなんと言うだろうか?
 知らず、シグナムは考えていた。
 時空管理局きっての強大魔力砲撃手にしてお節介焼きの彼女、高町なのはなら・・・。
「・・何を言ってもこちらの言葉は届かぬ・・ということか・・・」
「ご理解いただけたことを、うれしく思いますよ」
「だが、それでも・・・」
 きっと諦めはしないだろう!
 例えその身が地獄の業火に焼かれるようなことになろうとも、相手の目をまっすぐに見つめ返して、言葉を投げかけてくるだろう。
 だから、シグナムも、
「それでも我らは、お前達の味方になりたい!
 そしてお前達がそれを使って望むだろう願いを、共に叶える力になりたい!
 だから我らの言葉を聴いてほしい!」
「そうです!」
 シグナムは両手を差し出した。腰には彼女の愛剣レヴァンティンを佩いたままで。そうすることで敵意は無いことを現したのだ。シャマルに至っては感情移入したのか涙さえ浮かべている。
 だが、
「・・生ぬるい」
 そんな彼女たちの思いは、その一言で一蹴されてしまうのだった。
「生ぬるいですな。
 目の前に無造作に放り出されたそれに見向きもせず、こちらにばかり気をとられているとは。
 止めたければ力ずくでも止めればいい。それをしないのはなぜです?
 法の番人たらんという、強者的心理ゆえの傲慢ですかな?」
「・・確かにそれもあるかもしれない。
 だが、かつて自分達はそうやって救われたことがある。言葉によって、その思いの丈によってな!
 だから我らは同じように言葉を投げかける! お前達を救うことができると信じて!」
「くだらん!」
 男は言葉と共に唾棄したのである。シグナム達の思いを踏みにじる、最大の侮辱行為を。
 そして男はデバイスを振りかざし、ユラリとその身を揺らしたのである。
 これほど自らの未熟さを痛感することはないな。
 シグナムはこの言葉を投げかけることの難しさを、改めて思い知らされた。
 どんなに思いを投げかけようとも、ともすれば相手は態度を硬化させてしまう。相手の望むものが大きければ大きいほど、それは顕著になる。
 これほど分の悪い戦い方はない。と弱音を吐けるのならばそうしたい。だが出来るわけがない。そんな態度をとったが最後、相手はこちらを一生信じてくれないだろう。それはすなわち『負け』を意味することになる。
 已むを得ん。
 シグナムは苦渋の選択を取ることにした。
 姿勢を低くし、男を見据える。が、視線の先にある光景をいぶかしんだ。ロストロギアがそのままだったのだ。
 取れるものならば取ってみろという挑発なのだろう。
 その証拠に、男はニヤリと口の片方を吊り上げる笑み(耳元まで大きく広げる不気味なもの)を浮かべてみせたのだ。
 面白い。
 その挑発に乗ることは騎士の誇りに反するが、そうまでする男の心情にも感じ入るところがある。そしてなによりそれを退けることは、男が差し伸べてきたある種の歩み寄りを拒むことになる。
 だからシグナムはそれに応えることにした。全身全霊を掛けて!
 シグナムは上半身を前のめりに低く構えた。右手は左の腰のレヴァンティンへと伸ばす。居合いによる抜刀の構えである。
 ――主はやて、交渉は決裂しました。彼の者は融通が利かないようです。
 シグナムの呼びかけに、思念通話にて現場をモニタリングしていたはやては、すぐさま応答を返してきた。
 ――なんや価値観の相違ってやつがあるのは確かやったねぇ。
   でも話のわからん人でもなさそうやから、ガツンとやったるしかないかぁ。
   致命傷には気ぃつけや。シャマルもバックアップちゃんとな。
 ――了解!
 ――了解です。
 シグナムは思念通話をきった。
 後は征くのみである。
 レヴァンティンの鯉口を切り、ズラリと刀身を抜き放つ。と同時、
《Explosion! 》
 レヴァンティンが魔力カートリッジをロード。抜刀された刃に魔力が付与され、刀身に魔力による炎を纏いつかせる。
 シグナムの左足が大地を噛む。足首からふくらはぎ、膝、腿と生み出された捻りの動きは、瞬発力へと姿を変え、彼女の体を一直線に前へと推し進めた。
 低い姿勢で大きく踏み出した右足で大地を踏みしめる。踏みしめた足は震脚として打ち付けられ、それを以って推進力を腰の捻りへと転換させていく。そして腰の捻りは、丹田より生み出された裂帛の気合と供に、腹筋、背筋、大胸筋を通じて肩口へと送り込まれ、二の腕、前腕、手首を経由して炎の魔剣レヴァンティンへと注ぎ込まれた。
 そして一閃!
 雷光。
 稲光り。
 電光石火。
 そして、雲耀!
 これらはすべて居合いの剣速を喩える言葉である。
 シグナムが抜き放った一撃。それは彼女が持つ剣技で、大上段からではなく、左脇から右肩へと走る逆袈裟での『紫電一閃』であった。そしてそれは正にそれらの言葉を以って表現されるべき、神鳴りの閃きが如き抜き打ちであった。
 軌跡は寸分違わず、男の右脇腹から左肩へと走り向ける軌跡を描く。
「!」
 そしてシグナムは見たのだ。男の自信の程を。
 確かに彼女が放った抜刀術による紫電一閃は、男の体を捕らえている。しかしその刃先は男がかざしたデバイスに、さながらボクシングのクロスアームブロック状に構えたデバイスと腕によって防がれていたのである。しかもレヴァンティンが纏っていた魔力が根こそぎ奪われている。
「魔力吸収型のデバイスか!」
 合気道や柔術などの身のこなしによって、抜刀の威力を殺すことは可能である。しかし如何にしてそれを実現できたとしても、魔力を纏った刃は、それを乗り越えて相手に襲い掛かるはずなのだ。それを無効化するとなれば、そうした魔力を吸収する装備を整えていなければならない。一般の魔導師が扱うストレージデバイスにはできない芸当だ。
 驚愕の表情を浮かべるシグナムを見やり、男がほくそ笑む。
「すばらしい抜き打ちでしたよ。
 しかし『ゼーレ』が懐刀、ゼムゼロスと『トライホーン』の前では、無力!」
 と、口調を代え、傲然と告げてみせたのだ。
 そして、シャマルの悲鳴のような声が上がったのはほぼ同時。
 いつの間に振りかぶったのか、ゼムゼロスの両手がシグナムの脳天に炸裂したのだ。

 シャマルは自分の目が信じられなかった。
 音速を突破するような動作で踏み出していったシグナムを止められる人間など、まずこの世には存在しないと信じていたからだ。
 出来たとしても、大抵は魔力防壁や体術、剣術などでかわすのが常だった(事実、フェイトがそのようにして回避して見せている)。しかし目の前にいる男――ゼムゼロスと名乗った――はシグナムの突進と抜き打ちを、ほとんど身じろぎもせずに止めてみせたのだ。しかもあろうことか、どこからとも無く現したもう一対の腕で、シグナムに反撃の一撃を叩き込み、打ちのめしたのである。
 シャマルは自身の目が信じられなかった。

 信じられない。
 千切れて飛んでしまいそうな意識を繋ぎとめつつ、そう思ったのはシグナムである。
 なのはの兄が剣術の手練であることを知った彼女は、戯れで手合わせを願い出たことがある。
 そして今、この一瞬に叩きつけられた痛烈な一撃は、後にも先にも、なのはの兄に入れられた一撃、それ以来のことであった。
 手を抜いたわけではない。怪我を負わせないよう、威力設定を課してはいたが、このようなカウンターをもらうような余地は無かったはずなのだ。
 だが目の前にいる相手は、事も無げに受けきり、なおかつ反撃してきた。それは紛れも無い事実。
 面白い! 世にはまだまだ強い者がいる!
 その事実がシグナムに歓喜の情を起こさせる。
 ギリと歯を食いしばり、意識を無理矢理引き戻す事に成功すると、シグナムは瞬時に現在の状況を分析した。
 両拳で叩きつけられた体は、そのまま一度地面に激突し、バウンドしている最中にある。
 頚椎の辺りに激痛が走るが、それだけだ。手足に痺れとなって伝播してはいない。
 そして愛剣レヴァンティンは手中に収まったまま。
 さらに時間にして一秒も経過していない。
 ならば、不意を突くのに絶好のチャンス!
 腕を伸ばし大地を噛む。倒立するような姿勢にもっていきつつ、脚を伸ばして開脚旋回! 踵で二連激を叩き込む!
 それは完全に不意を突くことに成功したようで、ゼムゼロスの体がわずかに泳いだ。その隙を逃さず、シグナムは体を起こすと、すぐさま剣を水平に構えた。柄の尻に右手を添え、そして思い切りゼムゼロスの腹部に突き差した!
 いわゆる平突きだが、右手を添えてある分、貫通性が高い。
 如何に相手の反応速度が高かろうと、ほぼゼロ距離からの攻撃、しかも懐に入られてでは防ぎきれるはずもない。
 しかし刃がゼムゼロスに突き立った思った瞬間、今までにない手ごたえをシグナムは感じたのである。
 レヴァンティンの刃は確実にゼムゼロスの腹部を捉えている。だのに貫き通した感触はまったくと言っていいほど無かったのだ。それこそ糠に釘を討ちこむが如く、通り抜けたような感触だったのだ。
 そしてシグナムは見たのである。ゼムゼロスの体のど真ん中に大きな穴が穿たれているのを!
 その穴はレヴァンティンが穿ったモノではない。ゼムゼロスが自身の体を操って、自ら空けた穴だった。そしてシグナムはそこに剣を突き入れるような格好になっていたのだ。
 そうと理解した瞬間、シグナムは生理的嫌悪に総毛立たせながら、ほとんど反射的にレヴァンティンをシュランゲ・フォルムへと変形。ノコギリの要領で引き裂きにかかった。
 しかしそれでもゼムゼロスに決定打を与える事が出来なかった。
 文字通り八つ裂きの状態にしたというのに、バラバラになった各部位が独立して蠢くと、合体して元の姿へと戻ってしまったのである。
 群体。
 複数の個体同士が織り成し、纏まりあうことで、一つの大きな体格を構成した状態を言う。
 正にゼムゼロスの体は、アメーバ状の魔法生物が群れとなって形成し、一人の人間形態をとった存在だったのだ。
 単体の生産コストを抑えつつ、高性能なインテリジェントデバイスを操るための高度な知性を持たせるには?
 そんな相反するコンセプトを解決するために考え出されたのが、この群体というアイディアだったのだろう。
 それ以外にもメリットがある。特定の部位が損傷したとしても、それを他の個体が補うことでカバーできるのだ。また個体はすぐに分裂複製する事で、数を一定に保つ事も容易である(テロメアという概念は付いて回るかもしれないが、ここでは触れない)。
 考えようによっては恐ろしく理に適った運用と活用方法であることは間違いない。
 だが相対する方にしてみればたまったものではない。
 邪道を使った展開に巻き込まれれば、自身のペースを乱す事になって当然である。如何なシグナムとて、その例外ではなかったのだ。
 技で斬りつければ素早い動作で受けきられる。奇襲を仕掛ければ、分裂することで明確なダメージを与える事が出来ない。砂の楼閣を築くが如き、徒労感に襲われても無理は無かった。
 そしてその一瞬、己を見失っていたシグナムに、ゼムゼロスが襲い掛かったのだ。

 シグナムとシャマルの二人は、当初、シグナムが陽動、シャマルが相手の目を盗んで、ロストロギアの確保。という算段を立てていた。いささか道義に反するが、これも任務と割り切ったからだ。
 だが実際にはそううまく事は運ばなかった。
 目の前の相手、ゼムゼロスが、上半身をなんだか訳の分からない不定形の、スライムのような状態に変化させたかと思うと、その一部を触手のように伸ばしたのである。
 その様は、海の妖精といわれるクリオネが、餌を捕食するために天頂部の口を開いている様と同じように見えた(ようするにゲロンチョである)。
 そしてその触手がシグナムを捕らえたかと思うと、息つく間も与えず、バクンという音だけを残して飲み込んで(「取り込んだ」の方がイメージ的には近い)しまったのである。
 一瞬、何が起こったのか理解できず、思考停止状態に陥ったシャマルだったが、不意に自分を呼ぶ(滅多に聞く事のない)悲鳴に近いシグナムの思念通話を聞くなり、
「クラールヴィント!」
 知らず自分でも信じられないような金切り声を上げたシャマルは、左手に差し込んだ指輪状のインテリジェントデバイス、クラールヴィントに呼びかけた。
 その意思を理解したクラールヴィントは、本体を指輪の寝台から遊離すると、底部から伸びるワイヤーを伸張させながら、右回りと左回りの二つの輪を構成したのである。
《Anfung》
 宙に浮かぶクリスタルの表面に、『起動』という意味の文字が浮かび上がる。と同時、重なった二つの輪の中の光景が一変した。水面のように波打ったかと思うと、次の瞬間にはまったく異なる異質な空間が、その輪の中に姿を表した。シャマルの十八番、『旅の鏡』である。
 シャマルは旅の鏡を使って、シグナムを直接サルベージ、引き上げるつもりなのだ。
 そしてゼムゼロスに取り込まれ身動き出来ずにいるシグナムを捕捉したクラールヴィントは、その姿を旅の鏡の中に決像してみせた。
「・・・っ!」
 それを確認したシャマルは、まなじり決した真剣な顔を浮かべ、旅の鏡の中へおもむろに右手を差し入れた。そしてシグナムの襟首をつかんで引きずり出しかかった。が、敵も然るもの。せっかく捕まえた獲物を放すまじと離そうとしなかったのだ。
 シャマルは身の毛も弥立つ感覚を思えながらもクラールヴィントに指示を追加。シグナムを包むような形で空間を固定させると、旅の鏡の強制終了を命じたのである。そうすることでシグナムに取り付くゼムゼロスの体組織を、空間ごと強制的に断ち切れるからだ。
 そうして無事脱出する事が出来たシグナムだったが、その体は粘性のある組織体に捕りつかれ、散々な状態であった。
「ぶ、無事? シグナム・・・」
 思わず恐る恐る声をかけるシャマル。そんな彼女に、シグナムはボソリと呟き返した。
「なんとかな。しかし、早く戻ってさっぱりしたいぞ」
 既に消化液らしきものが分泌されていたらしく、酸性のきつい臭いが鼻を突く。シグナムのボヤキは、風呂好きな彼女らしくひどく素直な感想だった。が、言葉の内容とは裏腹に、剣呑な殺気を孕んだ語気で吐き出されては洒落にならない。
 苦笑いでそれに答えたシャマルに、シグナムはさらに言をつないだ。
「・・奴は何故あれをそのままにしているんだと思う?」
「え?」
 あまりに突飛な、そして突然の質問の意図に首をかしげながら、シャマルはゼムゼロスに視線を移した。
 ゼムゼロスは、姿を邂逅したばかりの状態に戻しつつある。そしてその傍らには、淡い光に包まれた(おそらくは互いに干渉しないよう封鎖結界に包まれている)三つのロストロギア、セフィロトの枝片がそのままそこに浮かんでいたのだ。
 確かに何故、それをそこに放り出したままにしているのか? 今この瞬間にも、旅の鏡で掠め取ることだって出来るかもしれない。そんな事態にならないうちに、デバイス内に戻したほうが、より安全に、そして確実にこの戦いに集中できるはずなのである。
「・・あたし達をこの場につなぎ止めるエサ・・とか・・・」
「確かにもっともな意見だな。ではそれをして、何を得ようとする?」
「んーと。ニルヴァーナに乗り込んで、私達が持っている一個を奪取する?」
「なるほど。それならば私を取り込もうとしたのにも道理が通るな」
 捕食し、シグナムが持つ情報を自分のものと出来たならば、ニルヴァーナ艦内の情報は赤裸々になる。保管場所の特定から、奪取後の脱出経路も容易に組み立てることが可能だろう。
 そのためのエサとして、ロストロギアを目の前に晒す。なるほど、筋が通っている。
「他にはないか?」
「え? えー・・と・・・?」
 レヴァンティンを構え、油断無く敵を凝視するシグナムの横で、シャマルは腕を組んで考え込んだ。最前線と言ってもいいこの場にあっては危険極まりないが、攻め手のシグナムが傍らにいるという絶対の安心感がそうさせるらしい。
 シグナムもまた、シャマルに考える事を優先させるつもりだったので、責めるようなことはしない。むしろそれが当然のように考えている。
「ダメ。やっぱりああしている事のメリットなんて、他に考え付かない」
「そうか・・・。
 だが、案外もっと簡単なことかもしれないぞ」
 え? といぶかしむシャマルに、シグナムは意外な一言を告げてみせるのだった。
「私達を『喰らう』ため・・だとしたら?
 捕食し、生体パーツとして取り込むことこそが目的だとしたら?
 ミイラ取りがミイラになる・・だったか? その諺通り、ロストロギアを回収に来た者達を釣上げるエサとして、ロストロギアを晒しているのだとしたら?」
「ちょ・・えぇっ?」
 シグナムの言う事がにわかには信じられないシャマルは、混乱したように目を白黒させる。だが一度捕えられ、そしてその最もシンプルで、最も強烈な欲望と衝動を目の当たりにしているシグナムが口にした言葉だ。その事実がなによりも説得力を与えている。
「だ、だとしたら・・・」
「今は奴に固執する事はないということだ。
 何かしら対策を講じた上で、あれに立ち向かうのが得策だろう」
「じゃあ・・引くの?」
「いや。引くにせよ、もう少しばかり奴の情報がほしい。
 接近した後、打ち合ってみる。隙を突いて高出力の魔力攻撃も打ち込んでみよう」
 無駄かもしれないがな。という言葉をシグナムは飲み込んだ。これ以上シャマルに不安にさせるようなことを言うまでもないと考えたからだ。
「了解」
 そんな彼女の心の内を知ってか知らずか、シャマルが簡便に明瞭な答えを返してくると、シグナムの表情から余裕は消え、そして体がゆっくりと沈み込んだ。
 すでに内から燃え盛る炎によって、自身に取り付いていた敵の体組織は、炭となっている。そして次の瞬間には、炎を闘志に代え、シグナムは弾丸のように飛び出していくのだった。


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