魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−



 そこは突風が吹き荒れる嵐の只中にあった。
 雷鳴が轟くそんな空の中に、赤と濃緑の閃光が飛び交っていた。
 ヴォルケンリッター鉄槌の騎士、ヴィータと、ゼーレの魔法生物、ゼラフィリスの戦闘による曳光だ。
 高機動による接触の後、少しでも隙を見せれば魔法による攻撃が打ち込まれ、そしてそれを迎撃する防御呪文が幾度となく展開される。術者は神経を研ぎ澄まし、身体能力をフルに行使し、見も心もすり減らすように激突を繰り返す。そして魔杖たちは、所有者たちの意思、意図を明確に読み取って魔法を自動起動させる。一進一退の、実力伯仲の戦闘が繰り広げられていた。
《Wespe Greifen!》
《Moth Scale(毒蛾の鱗粉)!》
 強攻型の誘導弾を放てば、それを迎撃するためのチャフのような防御用魔法を展開して打ち落とす。
《Viper Phantom!》
 ゼラフィリスが振るった鞭状デバイス、ネイプドアンカーがほぼ無限大に伸長。ヴィータを遠巻きに取り囲み、そして一気に縛り上げようと襲い掛かる。
「どっかで見たことがあるような攻撃してくんな! 著作権侵害で訴えんぞ、ヴェア・シュランゲ!」
「訳の分らないこと言ってんじゃない! あとその名でお呼びでないよ、小娘がぁ!」
 憤るゼラフィリスの絶叫を、鼻を鳴らしてヴィータが一笑に付すと、ゼラフィリスはヒステリックな絶叫を持ってネイプドアンカーを振るった。その操作でバインド系の魔法のように、ネイプドアンカーが包囲網を一気につめてきた。
「アイゼン!」
《Ya! Panzer Hindernis!》
 締め上げられる瞬間、ヴィータは自身の周りに赤い防護殻を構成し、弾いてしのいだ。だがそれでは弾いてしのぐだけで、その以上の身動きを取れなくするという、自らを手詰まりへ追い込む最悪な一手だった。身動きが取れなければ捕まってしまったのと代わりがない。しかし、
《Hindernis Vlatzte!》
 グラーフアイゼンが吼えた瞬間、赤い防護殻が爆ぜて消え、ネイプドアンカーを引きちぎったのである。それはザフィーラの拘束結界を力技で破ってみせた、あの出来事へのあてつけに他ならない。
「ザフィーラ、ブーストアップ!」
《Raketen form!》
 爆煙消えやらぬうち、ヴィータはザフィーラからの魔力供給という裏技の併せ業で、一時的に最大魔力量を底上げ。そしてフェアーテによる高起動、さらにグラーフアイゼンのロケット推進で加速力をあげるという、裏ドラ載せてハネ満みたいな勢いで、ヴィータはゼラフィリスへと突撃を敢行した。
「だりゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ゼラフィリスにデバイスを引き戻す暇を与えないヴィータの特攻は、苛烈を極めた。グラーフアイゼンの衝角は、普段のそれより鋭い幅広の矛のようだ。クリーンヒットすれば、致命傷は避けられない。そんな攻撃がゼラフィリスに猛襲した。が、
「ッダ〜〜〜〜〜! またそれかよ!」
 分体を果たし、ゼラフィリスは三々五々、散り散りに分かれて逃げたのだ。
「本当に精神衛生上よろしく奴だなてめーは! このヴェア・シュランゲ!」
「戦略ってお言い小娘! 悔しかった真似てごらん!」
 終結したゼラフィリスは、勝ち誇った顔をそこに浮かべ、ヴィータを挑発する。
「へんだ! もう一度消し炭にしてやるからそこ動くな!」
「やれるものなら・・・」
 ネイプドアンカーを杖に変形。魔法詠唱モードに移行。
「やってごらん!」
《Spear Rains》
 ゼラフィリスの周りに正四面体の魔力スフィアが合計十二個発生。そしてそこから八本の魔法の槍が放たれた。しかしこれは追尾性能のない順ぜんな砲台だ。いなそうと思えば出来ないことはない。とは言え、秒間二発で打ち出される槍は、その呪文の名前のとおり、雨のようにヴィータに向かって降り注ぐ。
 こいつはバリア程度じゃ防げやしないよ!
 ゼラフィリスは、こしゃまっくれた小娘に一泡付加せられると確信し、ニタリと口の端をあげる笑みを作った。事実、魔力の槍はその貫通性は尋常じゃなかった。ヴィータが手をかざして張ったシールドを、まるで障子紙を湿らせた指で突付いて穴を開けるように、いともたやすく刺し貫いてしまったのだ。そして槍はその勢いのまま、ヴィータの左胸とそのすぐ下の脇腹、右腿に穴を穿ち、右手を引き裂き、貫いたのである。
「はは! ザマぁないね! 小娘が!」
 蛇の性格の悪さそのままに、ゼラフィリスは悪し様にヴィータを罵った。そこには前回の戦闘で手痛い目にあった意趣返しという意味合いは全くと言っていいほど存在せず、ただただ目の前の戦闘を楽しんでいる節がある。傷つけ、痛めつけ、相手から抗う気力を削ぎ、そして立ち上がることもできないようにしたうえで屠る。そんな残忍な性格を現すように、ゼラフィリスは鬼気迫る、夜叉の如き表情で笑い声を上げ、ボロボロになったヴィータを蔑んだのである。
「・・満足したか? ヴェア・シュランゲ」
 愉悦に浸っていた彼女の耳元で、そんな囁き声が響いて回れば、彼女はわが耳を疑わずにはいられない。
 それは確かにヴィータの声で、だが確かに、自分の目の前には、哀れな肉片と化したはずの小娘が、確かに横たわっている。
「馬鹿な!」
 振り向き、声のした方、頭上を見上げれば、果たしてそこには紅の鉄騎、ヴィータの姿があった。それも無傷の姿が。
「そんなに驚くんじゃねーよ。仕掛けたこっちがビックリすんじゃん」
 ヘンと鼻を鳴らしてみせるヴィータの表情は、得意満面のそれだ。完全に、ゼラフィリスを出し抜いたという事実がそうさせているに違いない。
 一方、見下されたゼラフィリスは、信じられない思いで振り返り、自分が倒したはずの相手の姿を確かめた。果たしてそこには、
『ハズレ』
 というキタナイ字と、アカンベをしたヴィータの似顔絵が描かれた紙が張られた木の幹が、突風に晒され転がっていたのである。
 グウゥゥッ!
 呻きと供に、彼女の表情が眉間に集中するように歪められた。
 まさかこのような子供だましに引っかかるとは!
 自然、歯噛みはギシッという歯軋りを生み出す。そして彼女の姿は別のものへと移行していった。
 一度やってみたかったんだよな。変わり身の術って。
 いったいどこでそんな情報を仕入れたかはともかく、ヴィータが内心でそんなことを呟くと、
 ・・もう少しまじめにやれんのか?
 バックアップに回っているザフィーラの叱責する意識が流れ込んでくる。
 確かに、変わり身の術としては成功しているが、本来のそれは、敵の注意をひきつけ、次の一手に繋げるための魅せ技である。それを文字通り魅せてしまうのは本末転倒もいいところ。きっとニルヴァーナ艦内では、眉間に皺を刻んでいるザフィーラがいるに違いないのだが、得意気絶好調のヴィータは瑣末な問題と気にもしなかった。
 が、そんな彼女の視線が、チラッと足元に移る。そこには一匹の蛇がいて、彼女の脛に噛み付かんと、体を右に左にくねらせ、もがいていた。が、その牙は終に彼女の肌に突き立つことはなかったのだ。
「・・サンキューな。ザフィーラ・・シャマル」
 その光景を見たヴィータは、小さくポツリと、そして神妙な表情でつぶやいた。蛇は間違いなくゼラフィリスの分体の内の一匹で、今この場にいない二人の仲間の手により、彼女への物理的接触を阻まれている。それは間違いなく、二人の功績だ。
 ・・それは直接シャマルに言ってやれ。俺には無用だ。
 つれないことをザフィーラは伝えてくるが、ヴィータは「そうかい」と短く答えるのみ。いつだってこの守護獣は、一歩どころか十歩ほど下がって控え、仲間からの感謝の言葉などは「どうということはない」と無碍にする。だがそれは口先だけのことで、よくよく観察してみれば、彼の耳や尻尾が微妙に動き、喜びを現していることを皆はよく知っているのだ。
 きっと今だってそうしているだろう彼を脳裏に思い浮かべ、ヴィータは再度「サンキューな」と呟いた。そして手にするデバイスを、スナップひとつで一回転。蛇を引っ掛けるかどうかというところを掠めて振るう。
《Gefangennahme》
 アイゼンの「捕獲」という言葉通り、ヴィータの頭上に掲げられた槌先には淡い光に包まれた蛇がいて、次の瞬間には、アイゼンの槌の中へと捕らえられたのである。
 最低でもひとつの分体がいれば、残りはどうなっても死ぬことはないらしい。
 前回の戦闘で得られた経験から、蛇を捕獲したのは、再度誤って全殺しにしないための保険である。
 ずいぶんと小さくまとまったもんだ。
 と心のどこかで思いつつ、
「さーて、あのデカ物をどうやってしょっ引こうか・・・」
 軽く口の周りを、ペロリと舐めあげた彼女の目の前には、巨大な蛇竜に姿を変えたゼラフィリスがいる。爬虫類の目は今まさに獲物をどうやって喰らおうかという眼光を発し、手足のない体は、今にも飛び出さんばかりに力をためている。
 しかしヴィータに臆するところは微塵もなく、むしろ食って掛からんばかりに気合いがのっていた。体の大きさは何百倍もあるが、気概と度胸は引けをとらない。寧ろ食って掛かる勢いだ。
《Explosion!》
 主の気迫を知ってか、デバイスのグラーフアイゼンもやる気を見せるかのように、魔力カートリッジを装填してみせる。
 それを合図にしたかのように、ヴィータは疾風となって空を駆けた。
「おっぱじめようか! ヴェア・シュランゲ!」
 振りかぶって大上段から打ち下ろすアイゼンは、早くもドリュッケント・シュラークの態勢に入っている。
 方やゼラフィリスも受けて立つ構えだ。ヴィータを丸呑みせんばかりに開いた口の先、毒蛇の牙のようなそれが、超振動による耳障りな音を上げている。
「うりゃああああっ!」
 ヴィータの気合と、ゼラフィリスのジャァという響き渡る嬌声が、ランスベルク世界に轟き渡った。

  ◇

 槍の重い斬撃を、剣の腹で受け流す。
 剣の突きを、槍のしなりで払って落とす。
 一度交われば、膂力で剣の使い手が体ごと弾かれる。
 一度離れれば、変形した剣の切っ先が喉元をかすめて過ぎる。
 遠間をとって、魔力攻撃を打ち込めば、相手のデバイスがこれを吸収し無効化する。
 遠間から矢継ぎ早な魔力砲弾を撃って放てば、蛇の様に動く剣が弾いて殺す。
 一進一退の攻防は、泥沼の様相を呈していた。
 退いた者が残していってくれたモノと、それと重ね合わせることで、彼女の守りに終始してくれている者との助力で、彼女の身の危険は、相対する目の前の者の力量如何に関わってくる。故に前回のような不意打ちを食らうことはなくなったが、彼女が繰り出す攻撃は、魔力を食らうデバイスと並外れた体術、そして分体という反則技とで、柳に風と受け流されてしまう。
 ならば。と剣の騎士シグナムは、盾の守護獣ザフィーラに指示を出す。
 やってみよう。彼は躊躇なくその指示に従った。
 幾度ない打ち込みに上がった息を、大きな肩でするもので落ち着かせると、シグナムは愛剣レヴァンティン右手に、左手にその鞘を現出させた。
「・・? 居合いか? それも私に利かないことは実証済みだったと思うが・・・?」
 二対の肩の間で首を動かし、ゴキゴキと音を立ててみせる魔法生物の戦士、ゼムゼロスを、シグナムは冷ややかな目で睨み返した。
「一を知って、十をわかったつもりか?
 ・・それでは底が知れるというものだぞ、ゼーレのゼムセロス」
 右の手にする剣を順手で腰の辺りに構え、左の手にする鞘を逆手で持ち、目の前に突き出した姿勢で身構た彼女は、躊躇なく前へと跳んでみせた。ゼムゼロスの懐へと。
 そのあまりに自然な姿勢からの入りに、リズムを図り損ねたゼムゼロスは、突然目の前に現れたように見えたシグナムに目をみはる事となった。
 その一瞬の暇を見逃すシグナムではない。懐内に踏み込むと、時計回りに身を旋回。左の鞘を相手の膝に叩き込み、重心を崩す。そして旋回の回転力を殺さないよう、両足の爪先と踵にかかる重心の移動(虚実の入れ替え)だけでさらに身をひねり、右手の剣を顎の付け根に叩きいれた。
 相手が真っ当な生物であれば、一連の攻撃で脳震盪を起こすことが可能だったろう。だが、相手は群体だ。脳震盪を起こすような脳自体が存在していない。だからその打撃で明確なダメージを与えることはできないのだ。そのことをシグナムが失念しているはずがない。ならば、なぜそのような無意味な打撃を放ったのか?
 答えは簡単だ。次の決定的な一手を打ち込むための布石として放ったのだ。
 例え一瞬でもいい。
 相手の動きをとどめる必要がある。
 そのために、相手の懐に踏み込む必要があった。
 そのために、先の一戦と同じような踏み込みをしたのだ。
 相手の油断を誘うために。
 それを悟らせないために。
 そしてそれは成功したのだ。
 ザフィーラッ!
 応っ!
 今の彼女は、独りのようでいて実は二人で動いている状態にある。同一のOS上で二つのアプリケーションが同時実行、並列処理されていると言えば理解しやすいだろうか? だから彼女の足元に魔方陣が形成され、そこから光の帯状のものが伸びだしたとしても、なんら不思議ではなかったのだ。
「・・ッ! バインド・・ッ」
 地面より這い出るようにして伸びた捕縛用結界は、獲物に群がる狼のようにゼムゼロスを縛り上げていく。しかしその程度で、ゼムゼロスを捕らえることは難しい。分体化し、三々五々、散り散りになれば、捕縛結界など在って無きが如くだ。
 事実、ゼムゼロスは、数瞬の暇もなく、分体化を始めている。
「させん!」
 声を荒げたのはシグナムだ。彼女は初戦と同じように、ゼムゼロスの頭上にいた。あの時はその体勢から陣風を叩き込んでいるが、魔力吸収され、空振りに終わっている。まさか弐の轍を踏むはずがないと思われたが、彼女はあの時と同じように、魔法攻撃を放った。だが威力は桁違いに高いものをだ。
「炎熱大炎!」
《Glut hitze!》
 シュランゲフォルムで唸りをあげたレヴァンティンは、ゼムゼロスを簀巻きにするように取り囲む。そして刃の一つ一つが、業火を伴う熱線を放出した。
 『グルートヒッツェ(灼熱)』は本来、レヴァンティンを太陽炉と同じような形状に配置(レンズ効果により、桁違いに熱量を高くするため)してから撃ち放つ、集中砲撃型の魔法である。
 『斬りあってこそ、騎士の本懐』を旨とするシグナムにしては珍しく、殲滅掃討を主眼に置いた魔法でもあった。しかし取り回しはファルケン級よりも易く、連結刃によるバリエーションとしては最大級の威力を誇る魔法でもあるのだ。
 それを簀巻きのように螺旋状に配置すればどうなるか。
 放射される熱は行き場を失って内に篭り、オーブンの中と同じような状態になる。熱線とはすなわち電子ビームでもある。中に閉じ込められたゼムゼロスは、まさに電子レンジに放り込まれた猫と同じ状態に置かれることとなるのだ。
 切ってもだめ。突いてもダメ。魔力攻撃も駄目。となれば、付随効果のある魔法で、物理的に攻略するしかない。彼女はそう考えたのだ。
 勿論、前回と同様、リアクティブアーマーのように表層を犠牲にして、内部を護るという手段もあるだろう。だが、電子ビームは内部の奥深くにまで容易に届き、細胞の一片すら残さず、焼いてしまうはずだ。
 ――これで駄目なら、最早お手上げだ・・・。
 シグナムはキャンプファイヤーのように盛大な火の粉を上げるそれを見つめてそう思った。しかし油断はしていない。相手は魔法生物。いつの間にか分体を一つ残し、どこかで虎視眈々とこちらの様子を伺っている可能性がある。
 そしてその読みは当たっていた。
 それは、彼女の死角に入り込むように、巧みな飛行を続けていたのだ。ゼムゼロスのインテリジェントデバイス、トライホーン。そしてそのデバイスを握り締め続けている彼の右拳である。
 ――よもや、ここまで追い詰められるとはな。よほど前回の事が腹に据えかねていたと見える・・・。
 身体修復に必要なエネルギーを、トライホーンからの供給に頼り、ゼムゼロス(の右手)は眼下の光景を淡々と分析してみせた。
 それまでの知識や経験といった情報は、トライホーンの中にバックアップとして残してある。そうすることで、分体の一つが残りさえすれば、彼は彼として存在し続けることができるのだ。意思統合体とも言うべき核となるものが存在しない彼の体は、幹細胞(特にES細胞)のように、体のどこが残ってもそれを中心にして、体を取り戻すことができたのである。そのしぶとさは、昆虫Gに勝るとも劣らないと言っていいだろう。
 しかしその再生スピードにも限界がある。その最中に、先程と同じ魔法で焼き尽くされては一溜まりもない。だから彼は一時撤退を決めたのである。
 が、戦闘域に設定された周辺地域は、彼女が作りあげた封鎖結界が維持されたままだ。そこから脱出することはできないと考えていい。ならば再生完了まで、できるかぎり時間を稼ぐ必要がある。魔力探知に引っかからないよう、再生速度を抑え、息を潜め、潜伏する必要があった。
 だが彼は、現在の状況下にあっても、『負け』を意識していない。
 なぜなら、最終的にロストロギア『セフィロト』が彼らの手中に収まればいいのだ。そしてそれは確実に、彼の仲間の一人が、実現に向けて計画を進めている。
 なにも、目の前の『セフィロトの枝片』にこだわる必要性は、どこにもなかったのである。

    ◇

 計二箇所、計十二の瞳から監視、もとい見守られていたはやては、プルプルと体を震わせる極限状態に置かれていた。
 フェイトの義兄であるクロノや、その同僚の執務官、そして同じ特捜部の男性職員などと、これまでに一対一で行動したり、捜査方針の食い違いから言い争ったりするなどといったことは、それこそ両手足の指では数え切れないぐらい経験している(二進数で二の二十乗はいけるとかいう意見は却下)。なので、男性恐怖症だとか、気後れする理由など皆無なはずなのだ。
 にもかかわらず、同じテーブルを差し挟んで、なんでもない日常会話することが、こんなにも緊張することとは知りもしなかった彼女は、それこそ逃げ出した心境で一杯だった。
 が、これまでに話した内容は、決して色っぽいものではなかった。
 病院で出合った後、彼は自動車事故に巻き込まれ、足首を捻ったという。筋断裂とまではいかなかったが、全治一ヵ月と診断され、彼一人を残して、一緒に旅行していた仲間は一足先に戻ったということだった。
 最初の二週間は、病院のベッドでの生活となったが、治りが早いと診断され、三日前から、再会したあのプールでリハビリをしているとのことだった。
 そしてはやても、プールに遊びに行った理由を説明し終えたところで会話は途切れ、さてこれから何を話せばいいものやらと、思考停止に陥ったというわけである。
「え、あ・・うん・・と・・・」
 そこで持参した焼きたてクッキーを手渡して、
 これはやてちゃんの手作り? うまいよ。うん。いいお嫁さんになれるんじゃない?
 などという展開をもくろんでいたアリサのプランを、尽く覆してくれる。
 この状況をアリサ様に一言でまとめてもらえたならば、
「歯がゆいったらないわよ!」
 握り締めたぐーをプルプル震わせて、搾り出すようにして語ってみせること請け合いだ。
 しかし、
 タイミングなんかの問題もあるから、その場のノリで何とかなさい。
 と、事前にアドバイスしたのが完全に裏目に出た結果でもあったりするので、あまり強く出れないのも確かなのだ。
 ・・悪かったわよ・・・。
 後の反省会の場で、その点について言及されたアリサ様は、やさぐれた表情でもって返答したという。それはもー無責任極まりないったらない回答である。
 それはともかく、頭の中真っ白けのはやては、それでもなんとか気の利いた事をしゃべろうとするあまり、考えが頭の中で堂々巡りの状態だ。
 隣の家に囲いができたんやてねー。へーかっこいい・・・。
 じゃなくて、
 白熊が逮捕されました。取調室でおまわりさんに弁解します。私はシロです!
 ってなに小話やってるんや! ちゃうやろ! もっと他に考えることあるはずや!
 ウキーッと心の中で頭を抱えるはやて。しかし『これだ!』という話のネタがまるで浮かんでこないのもまた事実。
 こんな土壇場でこんなしょーもないことしか思いつかないなんて、なんてダメダメのダメ子さんなんやろう・・・。
 自然、顔はギュッと握った両の拳を視界に納める形で固定され、相手の顔などまともに見れなくなる。変に縮こまっている所為か、肩もコリ始めているのがわかる。
 ――誰かたすけて〜な〜〜ッ!
 と、藁にもすがるような思いで、悲鳴のような思念通話を周囲に飛ばすのだが、アリサの指示により、なのはもフェイトも受信拒否して返事を返してくれないのだ。よもや、孤立無援の状態が、こんなにも辛いものなのかと思わずにはいられないはやてである。
 そんなテンパってアセアセしている彼女を、頬杖をついたまま見つめるレイは、クスッと笑みを一つ浮かべてみせた。
 思うことは一つだ。
 これが本当に時空管理局の魔導師なんだろうか? どう見ても普通の女の子にしか見えないよな。
 ということだった。
 勿論、先に彼女に語ってみせた内容は、嘘八百である。
 病院の屋上で出会った時、傷を負って入院していた仲間というのはゼラフィリスのことである。たまたまセフィロトの枝片同士を干渉させてしまった事故で、傷ついた彼女の体の修復を図るために、この世界に逃れてきていたのである。
 そしてヴィータとの戦闘で体の大半を無くすことになってしまった彼女は、自己再生を加速させ、短期間で完了させる必要があった。そのため、彼は体の一部(右足の膝から下)を提供し、これに充てたのである。
 ゼロは戦闘に向かない後方支援型として開発された魔法生物である。前線で戦う二人のサポートとして、そして彼らの傷ついた体を補修する際の予備として存在されることを許されたタイプなのだ。よって、前線から離れたところに姿を隠すことになるのは当然の帰結で、今回は、それがたまたまこの世界の鳴海市だったのだ。
 そしてその潜伏先で、時空管理局の魔導師とプライベートで接触できる機会を得ようとは、一体全体どういった偶然であろう? ましてや相手は、ランスベルク世界に出張ってきている特捜部の担当者本人である。あまりにも出来すぎた話だ。どこかで誰かの意図が働いているのではないかと勘繰りもするが、千載一遇のチャンスであることに代わりがない。手をこまねいていては、彼らの悲願成就は達成できなくなる。
 そのためには・・・ッ!
 少しばかり心が痛みもしたが、背に腹はかえられない。
 懐からメモ帳を取り出し、何事か書き込んだ彼は、「すいません」となのはに向かって手を上げたのである。勝利の一手を打ち込むために。
 しかしその行動に戸惑いを見せたのは、誰あろう、呼び出されたなのはである。
 アリサから、シバシ傍観セヨ。との指令を預かっていた彼女は、どうする? と作戦本部に視線を飛ばすが、「お客さんを待たせちゃダメ」という美由希の言葉で、仕方なく二人のテーブルへと赴いたのである。
「お待たせしました。御用はなんでしょう?」
 そつなく御用聞きの言葉がついて出るなんて、すごいぞ私!
 とか内心で自画自賛しつつ(言葉遣いが変であることには気づいていないらしい)も、ちらりとはやてに視線を向けてみたなのはは、
 ありゃ〜〜。
 と、困った表情を浮かべたのである。
 そこには相変わらず俯いて、ウーンウーンと呻ってこちらに全く気づいていないはやての姿があったのだ。
 あまりに悪フザケが過ぎれば、後日ヴォルケンリッター(主にシグナムとヴィータ)にどのような仕打ち(報復ともいう)をされるかわかったものではない。
 ヴェスペ・グライフェンとドンナーシュラークのコンボを喰らった後、追い討ちにシュツルム・ファルケンが飛んでくる光景を脳裏に思い浮かべたなのはは、顔から血の気が滝のように引いていく音を聞いたような気がして、思わず頭をプルプルと振りまわし、そんな不吉な考えを追い出そうとした。
 でも、ヴィータちゃんもシグナムさんも、はやてちゃんのことになると、人が変わるからなぁ・・・。
 いっかな時空管理局最強の砲撃魔道師であっても、リミッターの外れたヴォルケンリッターの二人を相手に、五体満足でいられる自信はなかった。身の程をわきまえるといえば聞こえは良いが、そこまで自分のことを過信していない彼女である。
《Master. Have been waiting for visitor.(お客様がお待ちですよ)》
 黙考にふける彼女を、レイジングハートが専用回線で囁き現実に引き戻すと、確かにそこにはちょっと困り顔のレイがいる。
 呼び出した当の本人より、その相手のほうに注意が向けられ、手にしたメモの切れ端を所在無さ気にヒラヒラさせている様は、あまりに滑稽で惨めに映る。
「す、すみません!」
 そんな彼の表情を見たなのはは、直角どころか立位体前屈の計測をしてるんじゃないかというほどに体を折って謝罪すると、まるでひったくるようにレイが手にするメモを取り上げると、脱兎のごとく店の奥へと引っ込んでしまったのである。
 大丈夫かな・・・?
 その勢いは、レイを当惑させるに十分で、メモに書いたことを本当に理解してくれるだろうか? と、思わずにはいられなかった。
 顔を赤く染め、母と姉がいるショーケース奥に駆け込んだなのはは、赤く染まった頬を両手で押さえ、
「あ〜はずかしかった」
 と、大きくため息を吐き出した。
「なにやってんのよ。なのはは本当にノンビリ屋さんだね〜」
「おねえちゃ〜ん」
 イジワルな表情でからかってくる美由希を、軽く握った拳でポコポコと叩くなのは。そんな仲睦まじい姉妹の光景を、幸せそうな笑みで見つめていた桃子は、なのはが知らず落としたメモの切れ端を拾い上げ、
「二人とも、お店の中でそんなにはしゃいじゃだめよ。
 なのは。これリクエスト」
 と、任務の完遂を促した。
「ふえ?」
 桃子から差し出されたメモに視線を落とし、「落としちゃった」と小さく舌を出して見せたなのはは、そこに書かれている文字を認め、その意味を理解すると、レジの奥に備え付けてある電話の受話器を持ち上げた。そしてプッシュしたダイヤル先は、有線放送局のリクエスト受付である。
 そんな彼女を『構いたい光線』の射線上に置いていた美由希は、興味を覚えて残されたメモに視線を落とす。
「・・へー。シブイ趣味してるね。あの子」
 大学生の美由希からしてみれば、レイは年下の男の子である。そんな少年が、よもやサイモン&ガーファンクルが有名にした南米の名曲『El Condor Pasa(コンドルは飛んでいく)』の二胡アレンジという渋すぎる組み合わせをリクエストしてきたのである。意外に映って当然だ。
 しかしそのアレンジ曲は、夜九時台のドラマのイメージ曲としてお茶の間によく流れているので、それほど意外とは言い切れない。が、喫茶店でのデートにリクエストするような部類に入るかと問われれば、首を傾げるしかないだろう。
「でも最近の流行だから、お話のネタにはなるわよ。
 それに、はやてちゃんがあんな状態じゃ、少しでも間を保たせやすい内容を選ぶのは、男の子として当然じゃない?」
 桃子がそう解釈してみせれば、そういうものかな? と納得するしかない美由希である。
「あたしだったら、ちょっと引いちゃうなぁ」
「そう? 美由希もすてきな恋をしてみれば、分かると思うんだけど・・・」
「・・ちょっとお母さん。実の娘捕まえといて、えらく失礼なこと言ってくれません?
 恋の一つや二つ、あたしだってしてるわよっ」
「あらまあ。それじゃ今度その相手の子、連れてらしゃいな。歓迎してあげる」
「・・カンベンシテクダサイ」
 薮蛇だったかと内心毒づいた美由希は、これ以上この母親に何を言っても無駄だろうと悟ると、大人しく回れ右をして、厨房の奥へ退散することにしたのだ。
「あれ? お姉ちゃん、どうしたの?」
「いやなに、お母さんには敵わないなぁって思ってね」
 有線放送へのリクエストを終わらせたなのはとすれ違い様、そんな意味不明な事を言って奥に消えていく姉の後姿を、なのははクエスチョンマークを浮かべて見送った。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
 再度、桃子の傍らを陣取り、定点観測を再会したなのはは、気もそぞろに桃子に問いただす。
 が、桃子はクスリと小さく笑うと、
「なのは。最近、ユーノ君とはどうなの?」
 と、直球ド真ん中な質問をしてみせ、なのはの度肝を抜いたのである。
「え? え、なんでそこにユーノ君が?」
 その慌てっぷりに、何かを感じ取ったのか、桃子さんはもう一度クスリと笑って、
「なんでもな〜い。・・そう。なのはってば。ウフフ」
 と、クスクス笑ってはぐらかしてみせるのだ。
 そんな態度とられては、気になって仕方がないなのはは、
「なんでもなくないよ〜。
 ね〜、ユーノ君がどうしたの〜?」
「桃子さ〜ん。仕事しよ〜?」
 なんとなく仲間外れにされている士郎さんの声が空しく響きわたる、ショーケースの裏側、幸せ家族の団欒風景がそこにある。

「ほほぅ。ユーセンにリクエストして、はやての緊張を解く作戦ですか。
 ナイスな選択じゃない! GJ!」
 十点(ア)。十点(す)。七点(フェ)。
 作戦本部ではそんな品評がされていたが、やがてかかってきた曲を耳にするや、その評価は百八十度方向転換をはたしてみせた。
「うっわ、なにこの選曲センス! れーてんよ零点! 赤点だわ!」
「でもドラマのテーマ曲だよ。話題性は十分だと思うけど?」
 アリサとすずかの評価は、相も変わらず対立することが多いらしい。
 そしてそんな二人を脱力させるのは、フェイトのポジションというのも決まりつつあるらしい。
「・・これってなんの曲?」

 この世界に居を構えるようになって、早二年あまり。
 その間、いろいろとこの世界の文化に触れる機会の多くなってきていたフェイトだったが、ドラマや楽曲などは、まだまだ理解できないことが多々ある分野だった。
 ポップスやバラードなどといった楽曲は、比較的馴染みやすい(アカペラのボイスドラムは驚嘆しきり)ところもあり、聞く機会が多い反面、自ら進んでメディアを購入するまでには至っていない。
 尺八や三味線の独特の音色は嫌いではないが、それについて回る唄は、ただ唸っているようにしか聞こえないので、興味の対象から外れることとなる。
 副次的な話ではあるが、クラスメイトの間で、最新のポップスの話題が挙がるも、すぐに歌っている誰が良いだの、他のグループの誰の方が良いだのという話に即効で切り代わることがままある。しかしフェイトにしてみれば、テレビ画面の中に映っている彼らよりも、極身近な存在である義兄の方が、何倍もかっこよく見えるのだ。しかしそれを言うと、「ごちそうさま」と、皆に急に冷たくあしらわれたりするので、なんでなんだろう? と真剣に考えんでしまう根が素直な彼女である(もちろんなのはの方が、その何十倍もカッコいいのだが、それを言うと同情的に肩をたたかれるか、キャーキャーと黄色い声で取り囲まれたりするので、口にしないよう努力していた。これもよく分からない事の一つだ)。
 方やドラマである。むしろこちらのほうが深刻だった。
 まず嫁姑が、どうして常に仲が悪いという設定が好まれるのかが分からない(プレシアとリニスが近い関係ではあったが、それ以前に、二人は主人と使い魔である。愛憎劇とは無縁といえた)。もしかしてなのはとしたように、同じようにぶつかり合わなければ打ち解けあえない風習でもあるんじゃないだろうか? そう考え、すずかやはやてに問い質した時には、大爆笑され、大恥をかいた。
 他のドラマでも、日常生活の部分や、ギャグシーンのようなところで、首を傾げる場面が多々出てくる。それらを理解しようとする前に、内容のほうがどんどん先に進んでしまえば楽しめるはずもない。娯楽が娯楽たらんとする大前提が成立しなければ、それは単なる時間の浪費でしかなくなるのである。
 そんなわけで、クラスメイトとのおしゃべりでドラマの話が上がっても、どこが面白いのか分からない彼女は、そうなんだ。と相づちを打つしかできなかったのである。
 だがなんにでも例外はある。
 時代劇だ。
 刀を佩いた武士の行動は、身近に似たような人物がいるので、なんとなくその心情は理解しやすい。そして最後の方で入るチャンバラや、最終兵器の黒い小さな箱を取り出すと、皆が平身低頭するという『ルール』があることが容易に理解できる。こればかりは本当に単純明快なので、好んで見る傾向にあった。
 しかし、いわゆるゲツクだとか、ごーるでんとかいう時間帯のドラマは、彼女にとって本当に理解しづらい内容が目立つので、自然、見逃すことが多くなってしまうのだ。
 だから、そんなドラマのテーマ曲であるこの曲にしても、バイオリンよりもキューキューと耳障りな音が、独特の音階をもって鳴らされているようにしか聞こえないのだ。
 こればかりは文化の違いとしか言えないので、アリサもすずかも、えーと。と思案顔になるのだった。

 周りの評価は少々辛目ではあったが、そんな風評どこ吹く風。
 レイは、有線放送からリクエストした曲が流れてくると、そのメロディーをハミングで口ずさみ始めた。
 どこまでも空高く、飛んで、行けるならば・・・。
 正確な歌詞は知らなかったが、そんなフレーズが思わずついて出る。ゆっくりとした曲調を二胡で奏でれば、いやでも耳に残るメロディーラインが更に印象付けられる。
 目を瞑れば、荒涼とした草木もない大地に、雲ひとつない空を一羽の鳥が飛んでいる様がイメージが浮かんでくる。
 その鳥は大きな翼を広げ、上昇気流に乗って、どこまでもどこまでも、高く高く飛んでいく。
 その心象風景が、レイは好きだった。
 この身がこんなにも醜悪なものでなかったならば、自由な空を飛ぶ鳥のイメージそのままに、どこまでもいけるような気がしてくる。
 この牢獄のような世界から抜け出すためにも、必ずアレを手にいれる!
 心新たにした彼は、頬杖をついた姿勢のまま、視線をまっすぐはやてに向けなおすのだった。
 そんな彼の目の前の少女は、それまで何気ない話題を口にしていた時とは打って変わって、緊張した面持ちで、俯いた格好のまま凍りついたようにしている。それまでの態度で、膝上に何かを置いているのはわかったから、恐らくは、それを凝視しているとは推測することができる。さらにそうするあまり、周りの音が耳に入っている風でもない。彼にしてみれば、好都合の状態にあった。
 そう思い、頬杖をついた状態でなお頭をかしげてみせれば、目線は俯く彼女を覗き込むようになる。
 それが呼び水となったのか。
 不意に、意を決したようにはやてが顔を上げたのだ。
 だが、何事か口にしようとするのだが、その口はパクパクと動くに終始し、肝心な内容たるその言葉が出てこない。空回り全開である。
 そして苦労の末、ようやく何かを出してきたかと思えば、
「ちょ、ちょう暑ないですか? だ、暖房効きすぎてるんちゃうんか・・な。
 あは、あははははは・・・はぁ」
 額に浮き出た汗をハンカチで拭いつつまくし立てたはやては、しかし次の瞬間には、カクンと糸が切れたように項垂れてしまったのである。
 その姿がまた滑稽で、レイは噴出さず我慢するのに、相当の努力が必要となった。
 しかしいい加減、そんな彼女を見ているのも限界だろう。そのまま傍観し続けているというのは、なんだかいたたまれない気持ちになるからだ(こうしている間にも、別の一手を仕掛け続けているという負い目もあったかもしれない)。
「ね。はやてちゃん。その、机の下に持ってるのは何?」
 対して声を掛けられた方は、飛び上がらんばかりに驚いてみせたのだ。彼女が座っていたイスが、盛大な音を立てて轢かれたことと、
 なんでどうしてそんなこと知ってるんですかひょっとしてエスパー?
 と、矢継ぎ早にそんな風に語ってみせる瞳があれば、その驚きようは手に取るように分かるだろう。
 そんな彼女を見て、いよいよ耐え切れなくなったレイは、ついにブッと吹き出したのである。口元を押さえながら顔を伏せると、はやての目の前でクククと押し殺した笑いと共に、その背中が微かに震えるのだ。
 そんな少年の様を見て、はやての驚きの表情は、気恥ずかしさのそれへと変化し、やがて真っ赤に染めった顔のまま、
「そ、そないに笑わんでもえーやないですか!
 むっちゃ失礼ですよっ!」
 ぷーっと、ハリセンボンのように膨れて見せたはやては、ペシペシ平手でレイの頭を叩く。
「いやいや。目の前でそんな顔した女の子ってのは、始めて見たもんだからねっ。
 うん・・ククク・・・」
「ちょっとオニイサン!」
 ノリツッコミを入れたはやては、ため息を一つ。だがお陰で、それまで出すことが出来なかったそれを、戸惑うことなくテーブルの上に置くことが出来たのは皮肉と言わざるを得ないだろう。
「あ〜、何やいまさらって気もしますが・・・」
「開けても?」
 綺麗にラッピングされた包みを見たレイは、一しきり笑った後、はやての手ずから受け取ると、口を結んでいたリボンを解き、中身をあらためた。
 そこには色とりどりのクッキーがあった。
「早起きしてソッコーで作ったんで、あんまし味の保証は出来ませんけど」
 小さく舌を出しておどけて見せるはやてだったが、そのクッキーはとても卑下するような出来には見えなかった。
 そんな風には見えないけどなぁ。と率直な感想を口にしたレイは、市松模様のクッキーを一つつまんで、口に放り込んだ。
 少し固めの歯ごたえと、甘さ控えめなプレーンとココアは、中々絶妙なビターテイストに仕上がっている。
「うん。うまいよ。謙遜する必要なんかないぐらい」
 そう呟くレイの手が、何の躊躇もなく次の一枚をつまみ挙げ、口の中へと放り込む。その仕草に嘘偽りがあるようには見えず、そして「ギガうま」と言って、彼女が作った料理をモリモリ食べる少女とイメージがダブれば、自然、笑みが浮かんでくる。
「よかった・・・」
 二つ三つと、口に運んでみせるレイの姿に、はやては両手で頬杖をついてうれしそうに見つめるのだった。
 しかし不意にレイの手が止まったのはその時だった。慌てた仕草も見せず、懐からケータイ取り出すと、「ちょっとゴメン」と断りの文句もそこそこに、着信したメールを確認し始めた。
 デートの最中にケータイの電源入れっぱなしにしておくのってどうよ? と、どこかでアリサが騒いでるような気がしたはやてではあったが、ここでは敢えてスルーした。
 まだお互いをよく知らない、初対面に近い人物の行動を、その程度のことで束縛する謂れなんかない。と思ったからだ。
 メールを確認し終えたレイは、「ゴメン」と切り出してきた。
「仲間内でトラブルがあったみたいだ」
「お友達・・って、こないだ一緒に旅行してた・・・?」
 トラブルって何だろう? もしかしてまた事故? だとしたら、なんか呪われてるんじゃないだろうか? などと思わずにはいられないはやてである。
 そしてレイも彼女の言わんとしている事を理解したように、
「本当になんだろうねぇ。身の回りでこんなことばっかり起こるなんて」
 大仰に肩を竦ませて見せた彼は、そのまま立ち上がって、店の入り口へと歩き出した。仲間の下へ行くという意思の表れだ。
 もちろん引き止める理由なんかないはやては、
「あ、代金・・・」
 と手を伸ばしかけたが、レイがそれをたしなめた。
「小学生の女の子が、そんなこと気にするもんじゃないよ」
 それに今回の目的は、もう達したしね。
 最後の方は口にはせず、レイは独特なリズムの足取りでレジへと向かう。
「ありがとうございました」
 彼をレジで迎えたのは桃子である。そのにこやかな笑顔は、魔法生物の彼をして、
 母親がいたなら、きっとこんな笑顔を見せてくれるのかもしれないな。
 と思わせるものだった。
「? なにか?」
 会計を済ませる間、彼女の顔から視線を放さなかった少年に気づいた桃子は、首を傾げてみせる。
「あ、いえ。笑顔が素敵だな・・と」
「まぁ。そんなお世辞は、あっちの子だけにしたほうがいいと思うわよ」
 彼女が指差す方へ顔を向ければ、そこにはペコリとお辞儀をするはやての姿がある。
 面を上げたはやての顔にも、桃子と同じような、だが、まだあどけなさが残る笑顔がある。
 それを見た瞬間、胸の奥が痛むような感覚が走った。群体としてある彼の体が、はたしてそのような反応を示すものなのか甚だ疑問ではあったが、レイは確かにその痛みを感じたのである。
 ともすればまぶしい笑顔。
 ふんわりとしたその優しい笑顔の彼女は、うららかな日差しの中、綿毛を揺らすタンポポのようだった。
 手を伸ばせば、すぐにでも手にすることが出来そうなそれは、だが、決して手にすることは出来ない存在だった。
 自分は日陰者である。一生、陽の光の当たる場所に出ることは適わない存在である。
 そんな奴が、それを、彼女を求めてはいけない。
 彼の中の本能のようなものが、そう叫ぶ。
 それぐらい、あの少女はまぶしい存在だった。
 暖かな日差しの中で、鈴蘭のように可愛らしいにこやかな表情で笑う彼女。
 時として菖蒲のように、凛とした艶やかな姿を見せる彼女。
 今目の前で、年相応のあどけない仕草を見せる彼女。
 自分にはないもの。
 自分には似つかわしくないもの。
 そんなものをたくさんたくさん持っている彼女は、まさに太陽が如き存在に見えるのだ。
 ソレヲ求メテハイケナイ。
 心のどこかで、そんな警鐘が鳴り響いている。
 ソレヲ欲シテハナラナイ!
 だから彼は、彼女から視線をそらしたのだ。

 そしてそんな仕草を目の当たりにした少女は、ひどく動揺していたのである。
 え? なんで? 私、なんや失礼なことしたかな?
 まるで逃げ出すように踵を返した少年を見やって、はやては慌てて自分も席から立ち上がった。
 この前はごめんなさい。助けようしてくれたのに、あんな事してしもうて。これ、あの時のお詫びです・・・。
 出る前に、何度か反芻したのに出てこなかった言葉が、今いきなり湧き上がってくる。でも今はそんなことを言うべき時ではない。
 席を立ち、一足早く会計を済ませ、店から出ようとしている少年に追いすがって、はやては「ごめんなさい」と、言おうとした。
 ちゃんとしたお礼できなくてごめんなさい。
 練習台にしようなんて、失礼なこと考えてごめんなさい。
 退屈な思いさせてごめんなさい。
 でも、それらの言葉はついにはやての口から紡がれる事はなかったのだ。
 彼の足を気遣って、ドアを開けてみせた士朗に礼をいい、外に出た少年は、もう一度振り返り、微かな囁きでこう言ったのだ。
「ごめんね。はやてちゃん」
 それが一体どういう意図で口にされたのか理解できないはやてを残し、少年は、カウベルのやわらかい音を残して、町の雑踏の中へと姿を消していったのである。

    ◇

「こちらゼロ。目的は達成した。
 これよりそちらに合流する」
 喫茶翠屋を出た少年は、人手が多くなった商店街の中をしっかりとした足取りで進んでいった。
 時間差で届くように設定していたメールを受信したケータイに何事か吹き込む。
 そのケータイは、時空間を跳んで渡る伝書鳩のような機能を持っていた。直通で交信が出来ない時空間での連絡方法としては、割とポピュラーなものだ。魔力反応も極めて軽微で、はやてら魔導師たちに探知される可能性も低くて済む。
 歩みの遅い、杖を突いた買い物客の老婆を、クルリと身をひねることですり抜けた少年は、その勢いのまま商店街の雑踏の中をものすごい速さで歩いていく。喫茶店で足を庇うようにして歩いてみせた仕草など、まるで嘘のようだ。
 人ごみを掻き分け、交差点を何度も曲がり、比較的、人通りが少なくなったことを確認した少年は、油断なく頭をめぐらし、チラリチラリと視線を走らせると、細いわき道に身を滑り込ませた。
 万が一にも、尾行が付いている可能性があったからだ。
 そう。彼はあの店に魔導師がはやての他に、あと二人いることに気づいていたのだ。幸い、誰にも悟られずに目的を達せられたのは、正に僥倖だった。
 だが、油断は出来ない。いつ何時、不審に思った彼女たちの誰かがつけてくる可能性がある。
 ならば、出来ることはとことんやっておいて損はないというものだ。
 そして彼は地を蹴り、一息にその身を宙に浮きあがらせると、クルリと身を廻して、六m以上ある屋根の上に着地。前のめりに倒れそうな姿勢を、腹筋と背筋で力任せに引き起こしてみせた。
 ヒュウ。
 冬の冷たい風が頬をなでる。
 冬の高くなった空を一つ仰ぎ見て、色素のない白い髪を流されるがままに佇めば、そこに『レイ』と名乗った少年の姿はなかったのだ。
 そこにいたのは、第一級捜索指定遺失物『セフィロト』を収集すべく、ルート一九一A、第二○二管理外世界ランスベルクで、時空管理局と敵対行動をとっている犯罪者集団『ゼーレ』の一翼を担う魔法生物が一人、ゼロの姿だけだったのだ。
 赤い袖なしの外套の隠しから、ケータイを取り出した彼は、
「各自、目的達成のために邁進せよ。
 我らの崇高なる目的のために、全力で立ち向かえ!」
 外套を空っ風になびかせるがままにし、内に着込んだ胸甲を鈍く光らせる。そして頬を歪めた彼は、力強く、言葉にそれをこめた。
「ニンゲンになるために!」

 メッセージを吹き込んだケータイを手首のスナップのみで放り投げる。
 自由落下の放物線を描いたそれは、次の瞬間には小さな魔法陣の中に、トプンと水面の落ちる石のようにして消えていった。
 その直後、木枯らしの強い風が冬の鳴海市の青い空を、ゴウッと吹きぬけていく。
 街路樹の落ち葉を巻き上げ、吹いて流れたその風がやんだ時、魔法生物の姿は、鳴海市のどこにもなくなっていたのである。


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