魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−



   ◇

「現場の状況は? ミスタ・サンティーニ」
 第二○二管理外世界ランスベルクが時空間閉鎖を施行されてから、既に半日が過ぎようとしていた。
 問いかける若い女性の声は、少しばかり疲労の色を含んではいたものの、その身に纏う覇気に、いささかの遜色も見受けられなかった。
 秘密組織『ヒーリクス・コード』。これを若干二五歳という年齢で受け継いだローラン・ペーネミュンデは、この四日間の内に、減じた幹部会のメンバーの選出、浮き足だった組織の立て直しと、全身全霊をもって望み、そしてこれを見事解決するという離れ業を示してみせた。
 僅かな期間の内にこれほどの大業を為せば、最初の内こそ彼女の言動に耳を貸そうともしなかった古参の幹部会メンバーでさえ、彼女の実力を認めざるを得なくなる。そうして彼女は、晴れてこの組織を掌握することに成功したのである。
 そんな苦労をおくびにも出さず、彼女は今、時空管理局から引き込まれた直通回線をモニタリングする専用室内のど真ん中に陣取って、傍らに立つ壮年の男性に向かって、ランスベルクで起こっているだろう状況の説明を求めてみせた。
 本来彼女は、ランスベルクで起こっている事件になど、心を砕くどころか、必要すら全くなかった。だのに、そうしなかったのには、ハッキリとした理由がある。
 一つは、行方をくらませた祖父の動向だ。
 彼は突然、ローランにだけ急逝したことにして、現在は行方を完全にくらませている。だからその所在はようとして知れず、ばかりかローラン自身でさえ把握できていない状態だった。
 そんな彼が、失踪直前まで、この辺境世界で起こっている事件の動向について、酷く心を砕いていた事を彼女は知っている。ならば、事態が大きく動くだろうこの時期に網を張っていれば、自然、祖父が何を考え動いているのかつかめるはずだ。
 そう考えはするものの、祖父が生きていることを知っているのは、自分以外存在しない。このことが公になれば、苦労して掌握した組織の実権は、たちまち祖父の元へと戻されるに決まっている。下手を撃てば、祖父を亡き者にし、組織を牛耳らんとした謀反人として、粛正される可能性もある。冗談ではなかった。
 駄菓子をくれるが如く、組織のトップの座を明け渡した祖父にも責任がある! と彼女は憤慨したものだ。更には何故、死んだ事にしろというのか? 不可思議で、腹立たしいことこの上ないとは、正にこのことなのだろう。
 以上の理由から、表立って大胆な行動に出ることが出来ないローランは、このモニタールームで事の推移を見守るほかに手立てがなかったのである。
 もう一つの理由として、祖父への背信行為があった。
 これは、新たに掌握した組織に対する、自己アピールの側面が強かった。
 先日、祖父の考えとして、ランスベルクへの武力介入は避けるべき。と説いてみせた。しかし彼女が組織を掌握する際、幹部会役員の諒解を取り付ける条件として、この意見を翻せというものが少なからずあったのである。
 これを容れなければ、如何に遺言状に記されていようとも、彼女に組織のトップとして着任させない。させるものか!
 そう断言されてしまっては、例え法的に遺産の相続が完了したところで、なんやかやと難癖を付けられた挙げ句、それらは瞬く間に毟り取られ、彼女は形だけのトップになってしまうだろう。そうなれば、あとはお決まりの展開だ。組織は分裂、消滅し、祖父の威光も、褪せて消えていくことになる(膿だしなどの意味合いもあるのだろうが、それは彼女の考えるところではない)。
 ならば妥協はどうしても必要となる。そしてそれこそが、ランスベルクへの武力介入であり、組織によるゼーレの抹殺。および八神はやての暗殺。という手段となって結実することとなったのである。
 また当然の帰結として、その指揮を執るのは彼女の役目となった。組織のトップとして華々しいデビューを飾るという意味合いを持つ一方、仮に失敗するようなら、能力不十分として失脚させられることになる。正に試金石として、この事件の趨勢を任されたというわけだ。
 まったく、いい迷惑だわ・・・。
 本来ならば、信頼できる腹心であるところのヤヨイ・グレンジャー辺りに、このような面倒事は押しつけて、自分はゆっくりと惰眠を貪りたかったのだ。なにせ、六五時間前に三十分だけ仮眠をとっただけなのだから、無理からぬ考えだったのだ。
 だが彼女は、有能な秘書役として活躍していた経歴を持つ才媛だ。その矜持が、どんな些末事でも手を抜くことを由としない。だから鼻梁と眉間の間を指で揉みほぐし、フーッと大きく深呼吸を一つすると、疲れ気味の彼女を気遣って、待ちの姿勢をとって控える壮年の男に、「悪いわね」と小さく詫びてみせたのだ。
 彼女の傍らに立つ、長身で引き締まった体躯の壮年の男、ジョシュア・サンティーニは、秘密組織『ヒーリクス・コード』における機甲部隊『ガーゴイル』の統括役にある。所謂、死の商人と趣を同じにするヒーリクス・コードの実戦部隊となれば、そんじょそこらの軍隊よりも実力は遙かに上。とはいうものの『秘密組織』であるが故に、その存在は公にはされておらず、自然、傭兵団という色合いの方が強くなる。となれば、そこに集う連中は、一癖も二癖もあるような輩ばかりとなって当然だ。
 そんな彼らの首根っこを押さえつける男は、軍人然とした厳しい顔つきで咳払いを一つすると、雇用主の問いに、ゆっくりと答えてみせるのだった。
「・・では手始めに、時空管理局所属艦ニルヴァーナですが・・・。
 惑星ランスベルクとその衛星との間、ラグランジュポイントにて艦を固定しております。これは、我々他、外敵の侵入に対する示威行動であります。最早、中破といえる艦の状況下でありながら、ランスベルク地表面と周辺宙域に対して睨みを利かせており、運用効率は下がって当然のところを、百%に近い数値を示しているのは、目を見張るものがあります。
 個人的感想を述べさせていただけるならば、「流石である」と、賞賛したいところですな」
 最後の方は、彼なりのジョークのつもりだったのだろう。手放しでそう評価してみせるサンティーニに、しかしローランはほんの僅かも表情を変えず、手元の情報端末を操って、ニルヴァーナ艦長シモーネ・アルペンハイムの情報を引き出した。
「『静かなる微笑みのアイアンメイデン』・・ね・・・」
 情報端末の画面に、幾つものウィンドウを使ってシモーネの経歴がザーッと表示される。それを斜め読みしながら、彼女の二つ名に目を留めたローランは、気怠く、つまらなさそうな口調で呟いた。そして、
「いい遊び相手になりそうね」
 と、特徴的な細い糸目のシモーネの顔写真を見つめながら、サンティーニに振ってみせた。すると老傑の男は、不敵な笑みを浮かべると、
「相手にとって不足はありませんな。個人技能がそのまま艦体運用に、ひいては対艦戦闘に直結するわけではありませんが、現在の艦内稼働の様子からうかがう限り、対艦戦も鮮やかにこなしてみせるでしょう。
 いささか残念なのは、中破した艦艇を相手にせねばならぬ事でしょうか」
 デバイス『ガルンローレ』を使ったシモーネの戦闘スタイルは、チェスや将棋と同じく、相手の動きの数手先を見越して、機先を制するタイプだ。これはそのまま艦体戦のそれに置き換えても問題ないと言えるだろう。だからサンティーニの推測は、おおよそ間違っていなかったのである。
 ただし、彼は手足の如く操る傭兵を使って戦闘を楽しむタイプなのに対し、シモーネのそれは、誰一人傷つけことなく戦闘を終了させることを主眼に置いている。
 相対する系統の戦略が激突する際、どちらに軍配が上がるかは、神のみぞ知るところだ。そして、非殺傷設定などという甘い考えなど初めから持っていない傭兵団の方が、考慮するべき問題が少ない事もあり、アドバンテージがあることもまた確かだったのである。
 早くも心は、銃火が飛び交う戦場へと飛んでいるのか、愉悦の表情を浮かべてみせる老将に、殺し合いの何が愉しいというのか。と、内心毒づきながらローランは、冷ややかな口調で切り返すのだった。
「手負いの獣は恐ろしいそうよ・・・?」
「確かに。肝に銘じましょう」
 ローランの冷ややかな言葉に、我に返った老漢は、そう呟きながら襟を正してみせた。そんな彼の仕草に、皮肉も通じないのか。と、面白くなさそうに冷ややかな視線を放つローランは、「それで?」と問いかけ、先を促してみせた。
 所詮、戦争屋と彼女との間には、歩み寄ることが不可能なぐらい、深くて広い溝があるということなのだろう。それを、彼女の口調から察した老熟の男は、失敬と、短く謝罪すると、雇用主を満足させるべき情報の提供を再開するのだった。
「次にゼーレと名乗る実験生物ですが、今のところ、特にこれと言った動きを見せておりません。資料の通りであるとするならば、今は損壊した体の完全修復を終えているはずです。昇華の儀式・・でしたか。恐らくこれの細工に奔走しているか、もしくは管理局局員を迎え撃つ準備に余念がないのではないかと。
 指定してきた場所には、特にこれといった遺跡、神殿など、ロストロギアの封印に関係したと思しき史跡は存在していないようですな。地形的にも天候的にも、儀式に影響を及ぼすと考えられる要因は少ないようです。はてさて。連中は何故その様な場所を指定してきたというのでしょうな・・・?
 しかし厄介な代物に手を付けたものですな。そうまでして何を望むというのやら・・・。人間になったところで、バラ色の余生が送れるわけでもありますまいに」
 手元に抱えるペーパーメディアの資料を繰りながらサンティーニ。
 彼の言い分は、何もゼーレだけに留まる話ではない。スラム出身の若者が理想郷を目指し、念願叶えたところで、果たしてそこで何をしながら余生を過ごすのかという話だ。出来ることなど、そう多くあるわけもなく、最悪、スラムでやっていたこと(殺人、強盗、乞食のまねごと)を繰り返し落ちぶれて、挙げ句、望郷の念に駆られながら死んでいくことになるのではないのか。
 そうまでして追い求める必要があるのか? 夢は夢のまま、日々を漫然と生きていく糧として、胸に抱いて朽ちていった方が幸せではなかったのか?
 そう、老練の男は言っているのである。
 しかし、その問いに対する答えを、ローランが持ち合わせているわけもない。だから彼女は、爪の先ほども興味を示した風でもなく、ただ淡々と、
「決して死なない兵隊に、知恵なんて余計なものを持たせたのが、そもそもの間違いなのよ。虐殺程度の簡単仕事しか脳のない連中が、何を望み、何をしようとしているのかなんて、興味もないし知りたいとも思わないわ。
 失敗作は失敗作らしく、大人しく滅んでいればよかったのよ」
 そうすればこんな厄介事、背負い込まなくて済んだのに。
 と、最後の方は口に濁して、ローランは痛烈な事を言ってみせた。
 当事者がこれを聞いたならば、まず間違いなく鼻白んで、罵声を浴びせに掛かったことだろう。しかしローランはあくまで人間であり、富と権力を手にした勝ち組に類する存在なのだ。両の手に何も持ち合わせない負け組の者達の気持ちなんて、分かるはずもない。
 そんな冷徹な言葉を口にする彼女に、幾許かは負け組の人間の気持ちを組みすることの出来る老巧の男は、やれやれと言わんばかりに首を振るのだった。
「虐殺こそ、闘争のプリミティブな行動の表れですよ。
 弱肉強食における強者。これが行う残虐なまでに苛烈な暴力こそ、強者を強者たらしめる神聖で、正当な行為なのです。
 それしかできない彼らこそ、正しく強者」
 如何にも戦争屋らしい物言いだ。とローランは言外に呟いた。この様な偏執めいたウォーモンガーと同じ空気など吸いたくないと思いつつ、彼女はグッと堪えることにした。
「その強者であるところの貴女に問いたいことがあります」
 何を思ったか、壮年の老傑は彼女の前へと歩み出すと、臣下の礼の如く膝を折って跪いてみせた。
 自分と、あの失敗作を同列に扱うとはどういう神経をしているのか? そう憤り、文句の一つも言おうとする彼女の機先を制し、サンティーニは口火を切った。
「現地での戦闘は、最早避けられないでしょう」
 慇懃無礼に問い質す割には、随分当たり前なことをと考えながら、ローランは先を促した。
「では、我らは誰を討てばよろしいので?」
 早老の男の言葉が理解できず、何を言っているのかと、ローランは眉をしかめて怪訝な顔を作って見つめ返した。
 すると、彼女のとった態度が酷くお気に召したのか、
「八神はやて、と失敗作の魔法生物・・これだけを討てばよろしいか?」
 と、問いかけ直してきたのだ。
 それでようやく、ローランはこの老練な男の意図するところを理解した。
 つまりこの老獪な男は、これから介入してくるだろう勢力に対し、予め敵性勢力として排除しても構わないか? と聞いているのだ。それ即ち、ローランが気に掛けている祖父のヌーラン・ヴォイドが、どのような形で関わってきたとしても、同様に扱っても構わないか? という問いでもある。
 このタヌキは、どこまでこちらの事情を把握しているというの・・・?
 この時ばかりは、信頼できる部下であるヤヨイが側にいないことが悔やまれた。彼女は今、この場に詰めているローランの名代として、組織の雑務処理に明け暮れているはずだ。そして祖父の裏事情を知る、唯一の人物でもある。そんな彼女が傍らにいてくれれば、この老獪な男がどこまでこちらの事情に通じているのか把握した上で、助言し、励ましてくれるはずだからだ。
 しかし、ヤヨイは側にいない。だから泣き言などいってる場合ではないと思いながらも、臍を噛むずにはいられない。
 組織の把握にばかり、かまけすぎたわね。この程度の情報収集、現役の時分にはやっておいて当たり前だったのに・・・!
 秘書役時代、当然の仕事としてやっていた事だけに余計に腹立たしかった。
 でも、考えようによっては好都合かも・・・。
 いらだたしげに黙考に陥る一方、彼女は別の視点から考え直してみた。
 祖父が彼の地で何を企み、何を為そうとしているのかは分からない。加えて、祖父が生きていることが公になるのは、非常に不味い。
 ならば、のこのことやってきた祖父を、外敵として戦争屋のこの男に処理させれば良いのではないか?
 もともとローランとヴォイドの間には、血の繋がりなどというものは存在しない。そんな関係であればこそ、そのような謀計をしたところで、罪の意識など随分と軽微だ。もちろん、養女として拾い上げてくれたという大恩は感じている。だがそれがなんだというのだ? 引退するならば、大人しく隠居すればいいものを、死んだことにした挙げ句、暗躍するようなロートルなど迷惑なだけだ。向こうだってその程度のリスクぐらい、承知の上だろう。ならば事故で流れ弾に当たることになろうが、謝って斬り殺される事態になろうが、こちらの知ったところではない。
 そこまで考えたローランは、不思議と肩の荷が下りたように、軽くなったような気がした。だから、フーッと溜息を吐きだしたあとの彼女の表情は、どこか快活さを取り戻したようだった。
「ジョシュア・サンティーニ。機甲戦闘部隊『ガーゴイル』最高司令に命じます。
 ゼーレの抹殺を最優先で処理しなさい。その際、邪魔立てするようであれば誰であろうと構いません! 全て排除なさい! 例えそれが誰であってもです!」
 敢然とした姿勢を示してみせる彼女の姿に、果たして老将は、満足の笑みを浮かべてみせるのだった。
 実際のところ、彼はヴォイドの死の真相について、これっぽっちも知りはしなかった。ただ、二十年来の付き合いのある男が急逝したにしては、あまりに彼の周辺が静かであったが故に、なにか裏があったに違いない程度に考えていたのだ。そんな跡目相続のゴタゴタに、好き好んで首を突っ込む気にはなれなかったのだが、目の前にいる雛鳥のような、自分の半分も人生を経験していない人物を見ていたら、少しばかり骨を折ってみたくなったのである。
 だから、老熟で食えない男は、初めて腰を折るように頭を垂れる臣下の礼をとってみせたうえで、言上つかまつるのだ。
「全て承りましてございます。我が主よ。
 今後、我が剣は、貴女の敵を排するが為だけに振るいましょう・・・」
 突如、態度を急変させた(ように見える)老猾な男に、目を丸くしたローランだったが、直ぐにそんな間抜け面を引っ込めると、このタヌキめ! と内心で毒づきながら、
「感謝します」
 と短く答えてみせた。
 そんな彼女の態度が微笑ましく映ったのだろう。壮年の男は好々爺のような笑みを浮かべ、
「永久に、貴女の栄華が極められますよう」
 そう言い残して、『銀の猛禽』の異名を持つ老漢は、戦いの地、ランスベルクへと旅立っていったのである。

   ◇

 時間を少しばかり巻き戻す。
 はやてが格納庫スペースを飛び出していくのを見届けたシモーネは、少しばかり寂しそうな表情で溜息を一つつくと、ユルユルとした歩調で格納庫スペースの入り口をくぐり抜けた。
「・・のぞき見とは、良い趣味ではないですね。アンベール捜査官・・・?」
 そして彼女は、後ろ手に自動扉の閉鎖を確認するや、振り返ることなく傍らにもたれかかって立つ、ロートルオヤジに声を掛けてみせた。
 するとアンベールは、バツの悪そうにして、
「そんなつもりはなかったんだけどな・・・。
 あんまり仲睦まじいところを邪魔するのも悪いと思ってさ」
 と、苦笑いをしてみせた。如何に彼だって、シモーネとはやての間に割ってはいるような、無粋なマネをしようなどとは思わなかったからだ。
 しかし次の瞬間、彼は首筋に走るチリッと走る感触に総毛だった。それは長年培ってきた特別捜査官としての勘が、ヤバイ! と警鐘を鳴らした時に決まって感じるモノ、いわゆる第六感だった。
 んなバカな!
 今この場には、彼の他に存在する人間はもう一人しかいない。
 何故だ! と、もう一度反芻するようなことを彼はしなかった。下手な考え休むに似たり。考えたところで始まらない。
 こういう場面では躊躇せず、思うよりも早く体を動かした方が助かる率が幾分高い。
 そうやって、己に刻みつけてきた彼の経験則が体を突き動かすのだ。今回もそれに突き動かされるように、アンベールは腰を落とし、逃げの体勢に入ろうとした。
 だがそれすらも、既に手遅れだったのだ。
「・・どちらへ行こうというんです・・・?」
 彼の足下には、蜘蛛の巣のように何本もの糸が不可思議な模様を描いて張り巡らせており、彼の足首もまた、ガッチリと厳重に絡みついていたのである。
 逃げ出す事なんて、最早不可能だったのだ。そして糸の先は、もちろんアンベールが愛して已まない女性の、後ろ手に汲まれた腰の辺りから伸びているのが見て取れる。
 彼女、シモーネ・アルペンハイムは、アンベールを逃がす気など毛頭もないらしい。
 その証拠に、彼女の顔には、その特徴的な細い糸目が更に細く、下弦の月のように弧を描いて細められた、絶対零度の微笑が浮かんでいたのである。その笑みこそが『静かなる微笑みのアイアンメイデン』を知らしめる発端となった、魔女の笑顔だったのだ。
 顔を撫でて舞う蜘蛛の糸の煩わしさはこの上ない。シモーネが伸ばす糸もまた、それ相応に煩わしいまでに漂いまわる。だからアンベールは、それを払って然るべきなのだが、そうしようとはしなかった。いや、出来なかったのだ。目の前の人物が放つ冷たい重圧によって、身動ぎ一つ出来ないでいたのだ。
 最早、アンベールは蛇に睨まれたカエルそのものだった。
 そんな彼に向かって、どうしてと、シモーネは問いかけてきた。そしてそれに続く問いかけを聞いて、アンベールは色を無くしてたじろいでみせたのである。
「どうして貴方が、『連中』の狗になんて身を窶しているんですか・・・?」
 それを聞いて初めて、アンベールは事の次第を理解した。そして彼女の氷のようなその表情の訳さえも。
「・・一体、何の話だい・・・?」
 しかし、それでも彼は白を切ってみることにした。案外かまかけかもしれない。と思ったからだ。だが鋼鉄の淑女は、にべなく言うのだ。
「・・貴方のアルバイトについてです。よもや、知らないとは言わせませんよ」
 更には、脅しもかけてきたのである。
 即ち、鼻腔から糸を進入させ、直接、肺胞を傷つけて、呼吸障害を起こさせんとする強硬な手段だ。体内で発生した炭酸ガスは肺胞で濾しとられ、体外へと排出される。したがって、この機能が低下するような障害が発生すれば、体内の炭酸ガス濃度はたちまち上昇することになる。そして陸にいながらにして、溺れて死ぬことになるのだ。
 そんな迂遠な手段を使うのは、彼女が常套とするところだった。理詰めで追い込んでいくタイプの彼女の戦闘スタイルは、この様な場面では、拷問吏の手練手管のそれへと変貌する。そしてそれこそが、彼女の二つ名の本当意味するところでもあり、そしてその事を知る者は、そう多くはなかったのである。
 当然、マクシミリアン・アンベールは、その意味するところを知らない部類の人間だった。だから、鎖骨の下辺りに走った突然の激痛と、喉の奥で物を詰まらせたような息苦しさを感じた彼は、苦痛に顔をしかめる一方で、顔色を失ったのだ。
 彼の前に立つ愛して已まない女性は、その間、顔色一つ変化させず、氷の彫像のように微塵たりとも動かなかったという、その事実にだ。つまりそれぐらい冷徹に、シモーネは彼を殺すことに躊躇なんてしないという確固たるその意思に、彼は酷くたじろいだのだ。
 今の彼女なら、例え肉親を前にしても、何の躊躇もなく引き裂いてみせるだろうな。
 そんな確信めいたモノをアンベールは感じたのである。
 ならば白旗を振らないわけにはいかないだろう。
「ま、参った。
 参ったよ。だから勘弁してくれ」
 と、冷や汗を流しながら、這々の体で懐から待機状態であるデバイス『ピラーホイール』を取り出すと、抗う意志無しと宣言するように、彼女に向かって放り投げてみせた。
 しかしデバイスはピタリと中空に静止した。ガルンローレの糸によって絡みとられたからだ。それに何か仕掛けが施されている可能性もあったのだから、その処置は当然のこと。そして次の瞬間デバイスは、養蚕の繭のように白い糸でグルグル巻きにされ、彼の声が届かないほど遠くに放り出されてしまった。
「・・参ったね。どうも・・・」
 その有様に、アンベールは舌を巻いて降参することにした。そしておもむろに「いつ気づいたんだ?」と氷の彫像にむかって問いかけることにした。
「・・割と、早い時期でしたね・・・。
 訝しく思ったのは、貴方が彼らのデータを携えてきた瞬間です。無限書庫に依頼したのはセフィロトの資料探査だけでした。それなのに、彼らゼーレのデータがおまけとしてついてきた・・・。あまりに出来すぎていて、疑わない方がどうかしていますでしょう?」
 鋼鉄の淑女は、やれやれといわんばかりの口調で、溜息をついてみせた。
「確度の低いデータを取り急ぎ送ってくることも、なるほど確かにあるかもしれません。ですがそんな情報にまで、特A級の封印処理を施す必要がありますか?
 むしろ確度の高いデータだと思わせたい。そして欺瞞された情報をそうと悟らせず、意図した方向へと目線を反らすために利用されたと考えれば、それも納得がいきます」
 それはゴシップ誌が良く採る手法の一つだった。ゴシップをゴシップたらしめているのは、その荒唐無稽さが所以だが、しかしほんの一滴ほど、人を信じさせるに足る真実めいたモノが添加されれば、それはたちまち劇的な変化を示して、世間を騒がせる重大事へと発展することがしばしばある。芸能人のスキャンダルや政治家の汚職などがまさにそれだ。
 今回アンベールが行ったモノは、大国間の有事における情報戦に相当するモノだろう。大戦時には、そこかしこで当たり前のように行われていた公文書偽造。情報操作の類だ。
 たまさか、自組織内の人間、それも三十年からのキャリアを持つ人間が行うはずがないという考えから生み出される油断が故に、その被害はかなりの規模になる可能性がある。
 それを考えると、シモーネは軽い目眩に襲われそうになったが、今はそれを考える時ではないと、それを頭の隅に追いやった。
 対してアンベールは、飄々とした態度を取り始めていた。最早取り繕う必要も感じていないのだろう。
「うん確かに。見事な洞察だ。
 でもそこまで分かってて、何で今までほったらかしに・・って、あー、泳がされてたってわけか。とほほぉ・・・」
 頑なに感情を表に出さない鋼鉄の淑女と相反して、獅子身中の虫を気取る男は、大仰に溜息をついてみせた。だがその口調はこれまでと少しも代わらなかった。二人は確かに、互いを騙しあっていた。だが、男が抱いていた彼女への思慕は本物で、完全無欠の愛慕だったのだ。それが故に、これまでと変わらない口調で声をかけるのだ。最早、どんなに思いを伝えようとも、報われる事のない絵空事として処理されることが確定したのにも関わらず。
「試みに聞いても良いかい? 確信に代わったってのはやっぱり・・・」
「ええ。彼らのデバイスが管理局の規格に準じていることが分かってからです。
 特捜の方で何か掴んでいて、それを秘匿するために偽情報を寄こしたという線も考えましたが、これが決定的でした。
 そしてますますを以て貴方を疑わしく思ったのは、時空間閉鎖が発令された瞬間です。
 あまりにこちらで起こった事象が、筒抜けに為りすぎてましたから。
 魔法生物のデモンストレーションではなく、独自の意志を持って行動する彼らの動向。
 はやてさんから持たされた、彼らとデバイスの出自。
 これらを隠匿したいと考える者がいるとすれば、時空間閉鎖は当然の行動でしょう」
「だよねぇ・・・。
 それで? これから俺をどうするんだ? 艦長権限で簡易裁判の後、拘束、拘留? 本部に戻れば、直ぐさま無罪放免になるのが分かってるのに?
 第一七九管理世界ロンバルディア、皇位継承位第六位ペーネミュンデ・フォン・クレメンタイン皇女殿下様」
 アンベールは殊更、意地の悪そうな笑みをその口の端に浮かべてみせた。その笑みは、正にかわいさ余って憎さ百倍と言わんばかりのモノだった。
 何も秘密を握っているのは、アンタだけじゃないんだぜ。
 アンベールが口にしたそれは、シモーネがひた隠しにしていた彼女の過去そのものだった。
 管理局のデータベースにすら記録されていないその情報を、彼は一体どこで、どうやって仕入れてきたというのだろうか? 自身が持つ広域捜査権を有効に使い、地道に自分の足で調べ上げたというのが、最も考えられる有力な手段ではある。だが、これには膨大な時間と根気のいる作業であり、一朝一夕で結果が出せるような生やさしい作業ではない。でもだからこそ、彼をスパイとして仕立て上げた人間は、その能力と彼が持つ権力に目を付けて、接近したに違いないのだ。
 一方、男の恫喝ともとれる姑息な言動に、しかし鋼鉄の淑女はその表情を微塵も動かさなかったのである。それこそ、氷の彫像がそこに立っているかのように。更には心の動揺があれば即座に現れて然るべきデバイスの挙動にも、少しの乱れも見受けられなかったとなれば、あれ? 外した? とアンベールは肝を冷やす羽目になる。

 アンベールが口にしたシモーネの出身世界、第一七九管理世界ロンバルディア。そこは、十数年前にミッドチルダ文明圏に参加した、比較的新しい管理世界である。
 管理局による管理対象として登録、認可されるには、様々な手続きが必要ではあるが、兎にも角にも、管理局の出先機関である事務所のような施設を敷設することが、まず第一に上げられる。管理局はここを足がかりに、ミッドチルダ文明圏の広報活動を行い、住民との相互理解をはかった上で、様々な調整を行い、登録、認可の手続きを進めていくのである(EU統一通貨であるユーロを導入する際の基準と、考え方は同じ)。
 しかしロンバルディアの住人達は、これを頑なに拒否したのだ。彼らはこれを、管理局による侵略行為だと断じたからだ。
 当然、世論は真っ二つに分断され、ミッドチルダ文明圏への参画推進派と拒否派の議論は、風雲急を告げることとなった。
 そんな派閥争いは、自然、ロンバルディア皇宮内にも明確な形となって現た。
 ロンバルディアは、五つの皇家と、これを取り纏める首長とによる合議制を以て統治される連邦国家のような政治体制を敷いていたのだが、この内の一つ、推進派の急先鋒である皇家が暴走。首長国連邦国家としてのシステムを全く無視して、独断で管理局への参画を取り付けたのだ。
 つまりは、ロンバルディアを『売った』のだ。
 当然、ロンバルディアの住民達がこれを容認するわけもなく、『管理世界』と銘打ってはいるものの、その実、いまだ管理局の出先機関すら設置されなていないというていたらくだった。
 ところで故郷の人間からは『売国奴』と罵られる皇家は、何も個人的な利益に目がくらんでそうした訳では決してなかった。ミッドチルダ文明における魔法技術や、それに伴う文化、情報の素晴らしさを十全に理解する人間が皇家の中に多数存在していて、そんな彼らが、旧態依然とした国家の有り様に業を煮やしたというのが事の真相だったのだ。
 そんな才気溢れる革命に殉じた皇家の名をクレメンタインといい、その末席に、ペーネミュンデという内親王妃殿下の名前があったのだ。

「・・一体、なんのことです・・・?」
 対峙する二人の間に、永遠とも思われるほどの、僅かな時間が流れたその矢先、それまでピクリとも動かなかったシモーネが、口火を切るように動いてみせた。
 しかしそれは、あまりに意外な行動だった。つまり、白を切ったのである。
 まさかこの場面でそのような行動に出るとは思ってもみなかったアンベールは、不覚にも我を忘れて立ち尽くしてしまった。
 この場面でそんなことをしても、事態は少しも代わりはしない。それは彼女にだって分かっているはずなのである。だから、アンベールが、何故? どうして? と目顔で問いかけるような仕草をしたとしても、無理からぬ事だった。
 しかし程なくして、彼は理解した。
 彼女はそうしなければならなかったのだ。彼女は、故郷の人間にしてみれば売国奴の一味である。つまり何時如何なる時でも、命を狙われる立場にある。クレメンタインの人間は、それぞれがミッドチルダのあちこちで名前を変え、ひっそりと静かに暮らしている。今、シモーネが自らの正体を明らかにするような言動を採れば、隠遁生活をしている血筋の人間を、危険に晒すことになるのだ。
 否定も肯定も出来ない状況。ならば採れる行動は・・・。
 そんな彼女の剛胆さに、身が縮こまる思いに駆られるアンベールだ。そうと分かれば、彼が採れる行動も自ずと決まってくる。
「いえ別に。あそこの政情不安は長いですからね。皇族の方が人目を忍んで、他の勢力圏内に身を隠すのは世の習い。明かせない秘密の一つや二つはあるでしょう。私と同様にね・・・」
 彼女をあくまでペーネミュンデとして扱い続け、自分の立場を上げようと取り繕う。
 それが彼が出した答えだった。
「それが、貴方の答えですか」
 そんな彼の胸の内を分かっているのだろう。シモーネもまた、同じように受け答えしてみせた。
「・・如何様にでも・・・」
「ふふ。食えない人ですね」
「無駄に歳はとってないってことさ」
 互いの口元に微苦笑を浮かべ、どちらからともなく微笑みあった。
 恐らくこの時、この瞬間こそ、アンベールとシモーネの心が一番通い合ったに違いないのだが、運命はあまりにも無情だった。
「・・申し訳ありませんが、この事件が解決するまで、貴方を拘束させていただきます」
 次の瞬間には、シモーネの表情から柔和な色は霧散し、たちまち鋼鉄の淑女のそれへと戻ってしまったのだ。
 当然のこととして、ひでー! と非難の声をあげたアンベールに「ただ」とシモーネは言葉を続けてみせた。
「ただこの艦は今、外敵との遭遇戦を前提とした戦闘態勢あります。そしてこれに対応できる信頼あるスタッフも多くはありません。
 そこでお聞きしたいのですが、どこかに伝手はありませんか?」
 この事件が解決するまでは不問にしてやるというシモーネの譲歩案に、アンベールは普段そうするように、後ろ頭をボリボリと掻きながら応えてみせた。
「・・高いよ。俺っちを顎でこき使うってのは・・・」
「では前払いで」
 するとどうだろう。
 シモーネも普段のように、何でもない足取りでアンベールに歩み寄るや、右手の人差し指に軽くキスをすると、アンベールの同じ場所に、チョンと押し当ててみせた。
「期待していますよ。マクシミリアン・アンベール捜査官」
 そして彼女は、魅力的な小悪魔スマイルを残してその場から立ち去っていったのだった。

 空気を循環させるサーキュレーターの放つ、ブゥーンという低い音だけが響く静寂の中、
「・・やっ・・・た〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
 格納庫スペース前の通路で、みっともなく鼻の下を伸ばした不気味な笑みで、感動にうち震えて喜びを露わにする五十男の姿があったという・・・。

   ◇

「ところでフェイトちゃん。ちょっと疑問があるんだけど・・・。
 いいかな?」
 ああ。なのはと二人っきり。まるで新婚旅行みたいッ!
 と倒錯した世界に浸らんとしていたフェイト・T・ハラオウンを、すんでのところで現実世界に引き戻したのは、他ならぬ当の本人、高町なのはその人だった。
「な、なに? なのは!」
 脳みそパヤパヤな妄想から醒め、一気に我に返ったフェイトは、思わず口元を拭ったりなんかしてから、スキスキ大スキーな想い人に振り返ってみせた。
 二人は今、時空管理局で提督位にあるレティ・ロウラン個人が所有する、時空間航行を可能とするクルーザーのキャビンにいた。クルーザーは、出航や着航など、人間の手が是が非でも必要な時を除いて、運行のほぼ全てを自立行動出来る最新モデルである。
 それでも一応、万が一を考え、二人はお互いが持つデバイス、最も信頼できる相棒でもあるところの魔杖を、その管制サポートにつけていた。
 だから二人は、クルーザーの中では特にすることが無く、お喋りなどして時間を費やしていた。というわけなのである。
 大の仲良しで大好きな友達との、なんだかすごく久しぶりに感じられるお喋りは、いつ果てるともなく大いに盛り上がった。しかしそれでも、中座は必要だ。
 そんなわけで小用を終え、せっかくだから(?)と、重力制御を切った無重力空間を漂いながら、キャビンへと舞い戻ってきたなのはが、開口一番フェイトに問うたのだ。
 フヨフヨと漂ってくるそんな自分に向かって、頬を赤らめ、ワタワタ慌てふためいてみせつつ、手を差し伸べてくる親友の姿に、
 今日のフェイトちゃんは、なんだか可愛いなぁ。
 などと的外れな感想を抱く天然さんは、うんとね。と前置いて、差し伸べられた手を握り替えしながら、考えていたことを口に出してみせた。
「はやてちゃんがいる時空間って、今、閉鎖処理されてて、出入りできないんだよね? このクルーザーでタッチダウンできるの?」
 なのはが抱いた疑問は、至極尤もなものだった。
 警察官が個人所有している乗用車に、回転灯や警察無線が載っていないのと同様、いくら管理局の提督が個人所有しているクルーザーとはいえ、管理局が実施した施行処理を、フリーパスで抜けられる設備が載っているわけがない。
 下手をすれば、目的地を目の前にして、指をくわえたまま引き替えすハメになるか、もしくは、目的地の所在を認識できず通り過ぎるかのどちらかだ。
 なのはは、その事を心配したわけである。
 しかしその問いを向けられた将来の凄腕執務官は、何でもないように「大丈夫!」と請け合ってみせたのだ。
「おに・・クロノが、管理局を出る前に、コレを渡してくれたんだ」
 管理局の制服の懐に設けられている隠しから、フェイトはカード状のモノを取りだしてみせた。カードは透明のアクリル板のような材質で出来ていて、一見しただけでは、それがなんなのかは分からなかった。
 だから取り出されたカードを不思議そうに、ためつすがめつしたなのはは、次の瞬間、それが何であるか理解してみせた。
「・・? あ、高レベル執務官にだけ発行される特別執政権の委任状だ!」
「そう♪」
 執務官や捜査官にも、明確なランク付けというものが設定されている。そして、そんな彼らだからこそ発行、授与される、様々な権限というものが存在する。特捜であるマクシミリアン・アンベールが所有する広域捜査権などが、正にそれだ。そしてフェイトの義兄であるクロノが持つのは、各省庁などに協力を依頼できる特別執政権であった。これは、執務官が行う捜査に際し、超法規的に、あらゆる事務手続きをすっ飛ばして強権を振るえるという、伝家の宝刀のようなモノ(クロノ曰く、「ミトコーモンの印籠と同じぐらい威力を発揮する許可証みたいなモノ」)だ。
 その委任状を持つということは、一時的にせよ、フェイトは執務官としての権力を手にしたということになる。だからそれが嬉しいのか、金髪の少女の声は、心なしか弾んで聞こえるのだ。
「へー。すごいなー。
 こっちは閉鎖空間で、砲撃魔法ぶっ放してるだけだから、そういう権限みたいなの憧れちゃうなぁ・・・」
 委任状は、本人しか触れない仕組みになっているので、自然、なのはは物欲しそうに指をくわえて見つめることになる。
「私からすれば、なのはの持つコネクションの方がうらやましいよ。
 一体どれだけの世界に教導で出向いた? そして一体何人、教導したの?」
 あげないよ。とばかり、ひょいとカードを隠しに戻したフェイトは、小悪魔スマイルで切り返してみせた。
 なのはが持つ教導官という肩書きは、そのまま膨大な人材、人脈を構成する打ち出の小槌と見ることも出来る。
 現場の人間としては、見知らぬ執務官が出張ってきて、現場を引っかき回していくのを由としないだろう。しかしそれが過去に面識のある人間であれば、態度は急転換するというものだ。ましてそれが、教導官という大恩ある人間であったならば、どれだけ態度が違うかは想像に難くない。だから、そうした人間とのコネクションを持つ人間は、執務官や捜査官にとっては垂涎の的だったのである。
 何か、前に大変な事があったんだね・・・。
 明るく振る舞うフェイトの表情に、僅かな影を見いだしたなのはは、口に出さず、ホロリと涙をぬぐってみせた。
 その一方で、自分の心配は杞憂だったと理解した彼女は、
「兎も角、それを使えば、はやてちゃんのところに行けるんだね」
「そう。もちろんリンディ母さんも働き掛けてくれてるだろうから、後のことも心配ないよ。
 レポート提出とか・・ね?」
「あ〜〜〜〜ッ!」
 フェイトに言われる今の今まで、明日提出のレポートを作成しなければならなかったことを忘れていたなのはは、素っ頓狂な声をあげると、半ベソかきかき、レポートの作成に取りかかるのだった。
 その様は、さながら夏休み最終日に、すっかりその存在を忘れていた読書感想文に気づいて真っ青になっている、どこぞの小学生のようだったという。
「わーん。フェイトちゃん手伝って〜!」
「ハイハイ。元々私が巻き込んだんだし、それぐらいは当然だよ。
 あ、守秘義務とかどうしよう?」
「そこはそれ。その有り難いカード様のお力で」
「りょ〜かい」

 そんななのはの醜態を内包しつつ、クルーザーは目指す。一路、はやてがいる時空間ランスベルクへと。

   ◇

 たった一つの小石を放る。
 ただそれだけで、如何ほどのことが起こるというのか。
 俗人には想像することも出来ないだろう。

 だがしかし、今ランスベルクに投じられた石は、様々な場所で一重二重とさざ波を生みだし、ゆっくりと揺り戻され、たった一箇所で一つに纏め上げられようとしていた。
 小さなさざ波は、それ一つでは対した力も生み出さないだろう。
 しかしそれが、二つ三つと重なり合えばどうだ?
 三つ四つと、怒濤のように押し寄せてきたら?

 第二○二管理外世界ランスベルク。
 そこは今、様々な思惑を秘めて集う者達の集結地となっていた。
 そしてそこで生まれる波頭は、如何ほどに高く、そして如何ほどの爆発力を伴う力となるのだろうか。

 それをして、少年は謡うのだ。

  目覚めよ 卑しい者たちよ。

   目を覚ませ 知恵持つ獣どもよ。

    ここは聖域 甘く柔らかい知恵の実なり。

 そして、高らかに吠えるのだ。

  故にその身を預ければ 溺れたもう!

 朗々と。そして囂々と・・・!



PREV− −NEXT− −TOP