魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−


   − Digression.I −

 ゼーレと名乗った容疑者グループとの交戦から一転、彼らを追う事となったヴォルケンリッターとニルヴァーナの面々は、疲弊の最中にあった。容疑者グループ逃亡から三六時間が経過した現在でも、彼らの足取りが杳としてつかめていないことが、その最たる原因だった。
 平行して、ロストロギア『セフィロトの枝片』の探索も行われていたのだが、ヴォルケンリッターを苦しめるほどの難敵がその近辺に隠れ潜んでいるやもしれない。そんな可能性が十二分に考えられるとなれば、大胆な行動がとれるはずもなく、芳しい成果を挙げられずにいるのだった。

 そんな折り、「二人分働いてもらう」というはやての言葉通り、寝食を惜しんで容疑者グループの足取り、およびセフィロトの枝片の探索にと動いていたシグナムが、足取りも確かにはやての元へとやってきたのは、完徹明けの大あくびを噛み殺していたそんなときだった。
 二日完徹の疲れも見せず、シグナムの表情には覇気があふれていたが、さすがに汗と脂で、いささか薄汚れて見えた。風呂好きの彼女がそれを気にしないことに、老婆心めいた気持ちがはやての中に湧き上がるのは当たり前である。
「少しはゆっくりした方がえーよシグナム。いざって時に動けなかったら、元も子もないんやからな」
 そんな彼女の心配そうな表情といたわりの言葉に、シグナムは微かな胸の痛みを感じもしたが、それをあまんじて受けようとはしなかった。
「ご心配には及びません。我が主よ。
 かつては一週間もの斥候任務にて、昼夜問わず潜伏していた経験があります。
 それに比べれば、この程度」
 まだまだ余裕と軽口を叩くが、その顔は少しも笑っていない。実直に与えられた任務をこなすことを主眼に置いているためか、そこまで考えが及んでいないらしい。
「んなこと言わんと、シャワーだけでも浴びたらどないや? ちょっと臭うで?」
 そう茶化しながらはやてが鼻先を近づけようと身を乗り出すや、シグナムはスッと身を引き、距離をとってみせたのだ。
 シャマルが姿を消してからというもの、シグナムは鋭利な、抜き身の刃物のような雰囲気をまとっていて、誰も近づけようとしないのだ。今も困ったようなはやての顔を見るなり、「すみません」と近づきもせず言葉少なめに謝罪してくる始末である。
 めっちゃ、自分のこと追い込んどるなぁ・・・。
 そんな彼女をただ心配することしか出来ず、はやては申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だがシグナムが何か用向きがあって、自分の元に現れたことを思い出したはやては、それを呼び水にすることにした。
「そんで、なんか用があったんやろ?」
 そんな彼女の心中を察したか、シグナムは少しばかり顔の険を消して、視線をまっすぐにはやてに向け、
「はい。明後日は定期健診が予定に入っています。今日はここらで切り上げて、お休みになってください」
「・・ほえ?」
 シグナムが口にした内容に、思わず素っ頓狂な声を上げるはやて。もちろん顔は鳩が豆鉄砲をくらったそれである。
 今回の任務は、確かに難航することが予測されたものである。にもかかわらず、はやての定期健診の予約をキャンセルしなかったのは、担当医の石田女史に、ものすごい剣幕で押し切られたためだ。
 その際のやり取りを思い出したのか、シグナムはなにやら心痛な面持ちで、
「申し訳ありません。主はやて。
 出発前に、石田先生にはキャンセルの旨伝えようとしたのですが、これで何度目だと思ってるんですか? と、厳しく詰め寄られまして・・・。
 さわらぬ神に祟りなし・・と言うんでしょうか。石田先生をいたずらに怒らせるものではないと、身をもって知りました。
 ですので、主はやてには是が非でも戻っていただきます」
 有無を言わせぬ断定口調の物言いは、はやてが良く知る普段の彼女のそれだった。なんだか長い事、そんな彼女を見ていなかったような気がしたはやては、
「・・それ、あんま笑えんよ〜シグナムゥ・・・」
 と、げんなりした顔をしてうなだれてみせた。そして傾けた顔はそのままに、小さく舌先を出しながらシグナムの様子を伺って見てみれば、そこにはどのような反応返したものかと逡巡している、不器用な騎士の姿があるではないか。
 そんな忠臣の姿をみとめたはやては、なんとなく可笑しくなって、プッと小さく噴出してみせたのである。
「ほんならしょーがないなぁ。忠臣を困らせるわけにもいかんし。
 今回は大人しくあっちに戻るとしよか」
 二人は視線を絡め合わせると、どちらからともなく笑い合った。
「はい。
 しかし現状を鑑みて、誰かを付き添いに割くことは出来ません。
 シモーネ提督にも、それは避けてほしいと要請されました」
「ん〜、まぁせやろね。
 しゃーない。今回は私一人で行ってくるわ」
「いえ、やはりお一人で行かせるわけにいきません。
 ですので、既に手をうっておきました」

   ◇

 にゃ〜ん。
 ゴロゴロゴロ。
「ん。あははは、やめてやめて、くすぐったい」
 はやては数匹の猫に囲まれてもがいていた。
 これ以上は無いほどに不服そうなヴィータに見送られ、はやてはニルヴァーナから月村邸の庭先に転送されたのは、約十四時間前の出来事である。
 はやての定期健診の付き添いに、シグナムは月村すずかを頼ったのだ。もちろん高町家を頼っても良かったのだろうが、喫茶店業務の邪魔になることは明白であったため、静かな環境を期待できる月村家を選択したのである。
「それじゃ、あたしんちが騒がしいみたいじゃない!」
 と、どのようにしてかそれを小耳に挟んだアリサに詰め寄られ、後日、平身低頭するシグナムの姿があったのはともかく・・・。

「ぴ〜と、アンナ、平ちゃん。
 もう、そんなにはやてちゃんにじゃれ付くんじゃありません」
 押し倒され、圧し掛かられ、猫達の下敷きなっているはやてを見かねて、すずかが猫達を叱り付けた。だが、声音は怒っているものではなく、諭すようなそれだ。
「もうこの子達ったら。
 ごめんね、はやてちゃん。重かったんじゃない?」
「そんなことあらヘンよ。ひさしぶりにすずかちゃんとこのニャンコ達に挨拶できて、こっちも嬉しいんやから。
 なぁ〜?」
 すずかに抱きかかえられている猫(三毛猫の雄、名前はアントニオ)に、はやてが小首をかしげてみせると、相槌を打つようにアントニオは「にゃー」と鳴き返すのだった。

 晩秋も終わりに差し掛かった頃の小春日和。
 月村邸のテラスは、オープンカフェの如くガラス戸が開け放たれ、麗らかな日差しを取り込んでいた。時折吹き込む風はそれほど肌寒くもなく、庭先の花壇で咲誇る青紫と黄色のパンジーの花弁を、微かに震わせるのだった。
 そんな午前のひと時。
 テラスの脇にしつらえたカウチでクスクス笑いあう女の子二人を、少しばかり離れたところで見つめているのは、なのはの兄、高町恭也である。
 もちろん恋人であるすずかの姉、忍の元を訪れた彼なのだが、いつのまにやらはやての定期健診に付き添うことになった次第である。
「送り迎えは私がやってもよかったんだけど、病院で二人だけにするわけにもいかないでしょ?」
 という妹思いの姉の言葉に、異を唱える理由などあるはずもない。それに二人とも大事な妹の親友でもあるのだ。なおさら断る理由もなかった。
 というわけで、決められた時間にはまだ早いこともあり、今は一服入れている最中だ。
「恭也様。あまりお若いお二人に熱い視線を向けておられますと、累が及びますよ?」
 そんなことを言いながら、それまで気配を感じさせずにいたにも関わらず、いつの間にか傍らに立ち、彼の手元にあるティーカップに琥珀の液体を音もなく注ぎ込むのは、忍付きのメイドにして月村邸のメイド長、ノエル・K・エーアリヒカイトである。
 既に達人の域に達し、仙の峰、神の頂を目指す恭也の背後を、いとも容易くとることができるのは、シグナムを除けばこのメイドぐらいと言っても良いだろう。
 そんな彼女が、目を弓のようにして微笑んでいることの意味を察した恭也は、バツの悪そうに頭を掻き掻き、
「それは心外というものだぞ、ノエル。
 あれは普通に絵になる風景だ。普通に目を留めて何が悪い?」
 と居直りの言葉を口にしつつ、注ぎ直された紅茶を口元へと運こぼうとする。その矢先、
「それじゃあ恋人以外の女に目を留めるのも、普通に無理はないわねェ。
 ね、恭也?」
 そんなことを言いながら、彼とテーブルの間に体を滑り込ませた忍が、艶やかな笑みとともに恭也の膝の上を占拠してくる。その身のこなしは、まるで魔法のようだ。
 しかし、こめかみの辺りに青筋を浮かべているとなると、その笑みはまったく別の意味合いを持つ事となる。かてて加えて、穏やかな口調すらも、空恐ろしいオーラをまとって聞こえてくるのだから、それはもう鳥肌ものである。
 累が及んだか。
 そんな怒り心頭な膝の上の恋人に、恭也は嘆息一つつき、
「・・女というが、あの子達はまだ中学生にもなってない・・・」
 と、弁解を試みようとしたのだが、
「でも、オ・ン・ナ・よ?」
 色々な意味合いを含ませた口調と有無を言わせぬ気迫、なおかつ、自身を支えるために腰にまわしていた左手が、彼の引き締まった(脂肪などほとんどない)わき腹の肉を思い切りつねり上げているとなれば、それ以上何も言うことができなくなる。
 にこやかな笑顔の下に、般若の面を隠している彼女ほど、手に負えないものはないことを理解している恭也は、白旗を揚げる以外、選択肢がないことを改めて理解するのだった。
「・・悪かった」
 恭也が観念の一言を呟き、艶やかな黒髪とともに頭をやさしく撫でてやると、忍はようやく怒りのオーラを霧散させ、「よろしい」と満面の笑みで彼の胸元にしなだれかかるのだった。

「なんや、恭也さんて、もう尻に敷かれてるみたいやねぇ?」
「あ、あはは・・・」
 そんな二人のやり取りを、今度は女の子二人がやってられないという空気で見つめていると、すずか付きのメイド、ファリン・K・エーアリヒカイトが、そろそろ病院に行く時間だと告げてくると、四人はそろって月村邸を後にしたのである。

    ◇

 海鳴大学病院へとやってきたはやて達一行は、受付を済ませ、待合席でしばし時間をつぶすこととなった。
 車から病院へと席を移す際、杖を突きながら歩を進めるはやての様子を見た恭也は、片方の足に力をかけ過ぎだ。と彼女に注意を促した。
 麻痺からの回復途上にあるとはいえ、あまり偏った力のかけ方に慣れてしまうと、完治後にもその癖が出るのは明白。さらには背骨や骨盤に悪い影響を出しかねない。
 魔導師として力を発現している最中は、麻痺の影響は回復しているといっても、身についてしまった癖まで消すことは出来ないだろう。そしてそれは、彼女の弱点になるかもしれない可能性を秘めているのだ。
 妹同様、魔導師を生業にすることを望んでいる彼女の事情を知る恭也は、それを危惧し、リハビリのメニューにストレッチなど、偏った筋力を戻すものを取り入れることを助言するのだった。
 父、士郎のリハビリにも付き添った経験のある恭也のそれは、なるほど武門の人間らしく、的確で、はやても感じ入ることしきりだ。それだけでも、今日、恭也に付き添ってもらえた収穫であると言えただろう。
「ほんなら、シグナムにはなんかあります?」
 冗談めかして、はやては忠臣の剣技について話を振ってみた。思念通話は届かないが、落ち込んでいる彼女の励みになればと、心のどこかで思ったのかもしれない。
 しかし、
「・・いや、彼女には特にないな。
 あの人は独りで為すべきことを為し、そして精進していく稀有なタイプだ。
 俺がとやかく言って、それを惑わすこともないだろう」
 と、存外につれない言葉が出てきたのだ。普段であれば、これ以上はないほめ言葉なのだろうが、千里眼の持ち主でもない恭也に、それを別れと言うのは酷な話である。
「・・なにかあったとしても、時間が解決してくれるはずさ」
 だが口調や態度で、相手の兆しを読むことに長けている恭也なればこそ。はやての心中を慮ってか、そんな労りの言葉がついて出てきた。そしてそれ以上何も言わないのは、自分の読みが九分九厘間違っていないと、考えていることの現われでもあった。
 シグナムが一目置くだけの事はあるわけやね。
 自分を通して、シグナムの心情を推し量ってみせた恭也に、はやては舌を巻く思いだ。
「あら、今日はシグナムさん達が付き添いじゃないのね」
 そう言って一行の前に現れたのは、はやての主治医である石田女史である。
 はやての周りにある人影が、いつもの面々でないことに気づいた彼女は、だからといって恭也たちに不信の眼差しを向けるようなことはしなかった。
「おはようございます。石田先生」
 イスの上で、上半身だけ向き直ったはやては、石田女史にハナマル笑顔の挨拶をした。
「はい。おはようございます。
 えーと、何度かあったことはあったわよね。月村すずかさん・・でよかったかしら?」
「はい。覚えていただけて光栄です」
 言葉通り、片手で事足りる程度の面識(はやての見舞いや花見会など)しかないのに、自分のことを覚えていてもらえたという事実に、すずかは感激ひとしおのようで、顔の前で手を合わせ、瞳ウルウルの笑顔を作っている。
 そんな彼女を放っておいたら、そのまましばらく話が進みそうにない。そう思ったのか、忍はツンツンとすずかをつついて促した。
「あ、ごめんなさいお姉ちゃん。
 姉の忍と、未来のお義兄さんの恭也さんです」
 すずかが臆面もなく二人のことをそのように紹介するので、二人は瞬間湯沸かし器のように、一気に耳まで赤くせずにはいられなかった。
 そんなの二人のあわてぶりに苦笑しつつ、
「すんません、先生。
 シグナム達、どうしても外せん急用が入ってもうてなぁ。そんで、今日はすずかちゃん達に付き添いお願いしたんですよ〜」
 とはやてが簡単にことの経緯を説明すると石田女史は、
「そうなんだ。この前、お灸をすえた効果はあったみたいね。ウフフ♪」
「あ、あはは、あはははは、それはもう・・・」
 一瞬、石田女史の眼光がギラリと光ったような気がして、はやてはすごい不自然な相槌を打ってみせた。「怒らせたら怖い」というシグナムの弁はどうやら本当らしい。そしてどのようなお灸をすえられたのか、深く追求するのははばかれると思ったはやては、首をかしげる三人をよそに、
「ほな、センセの部屋行こかー」
 と、富に明るい声で皆を促すのだった。

 はやてら四人は、石田女史にあてがわれた医務室へと通された。
 はやてと石田女史が向かい合わせでイスに座り、残った三人はその後ろで内容を聞く。というお決まりの席順になる。
 内臓器官への麻痺の進行の心配もなくなったため、レントゲンフィルムを用いた説明など勿論なく、医師と患者の触診と質疑応答が繰り返される。
 はやての口から、実生活での様子を確認した女史は、手にした万年筆で要約した内容を、つぶさにカルテに書き込んでいく。その音が、静まり返った医務室で響く唯一の音となる。
「ふーむ。それじゃあ引きつるような感覚とか、痺れみたいなものは、もうないのね?」
「ないですよ、はい。屈伸とかしても痛ないし、足の指だってワキワキ動くんですよ〜。
 ちょうおもろいって言うか、感動モノです」
 見せましょうか? とサービス精神旺盛なはやてを押しとどめ、石田女史はにこやかにそんな彼女の状態をつぶさにメモしていく。
「あ〜、ただ関係あるかわからへんのやけど・・・」
 と、不意に語尾を濁したはやてに、ふいっと顔を上げて正面から見つめると、そこには顔を少しばかり赤らめ、目線で恭也のことをチラチラと盗み見するはやてがいる。
 その視線の意味するところを、ああなるほど。と敏感に察して見せた石田女史は、
「申し訳ありませんが・・・」
 と、恭也に席を外すよう促したのである。
 付き添いで来たのだから、診断内容を事細かに聞く必要性(というより義務感)を感じていた恭也たが、同じように、はやての態度の意味するところに気づいた忍が、
「女の子には殿方に聞かれたくない内容もあるんですのよ?」
 と咎めるや、彼は大人しく回れ右をして、医務室から退散していったのである。
 つまりは母娘の会話をしたいということなのだ。なんで親類でもなく、まして男の恭也が立ち会えるわけがあろうか。
 恭也が這々の体で医務室から出たことを確認した忍は、
「はい。人払いはしたわよ。それでそれで?」
 石田女史よりも興味深々といった感じで、はやてをせっついた。年長者として、また歳の離れた友人として、はやての心配ごと、相談ごとに関われるのを楽しんでいるらしい。
 そんな姉を、困り顔のすずかが止めようとするのだが、なにやら変なスイッチの入ってしまったらしい姉は、聞く耳を持とうとはしないのだ。その様は、ドラマに出てきそうな近所の世話好きのおばさん、そのままである。
 そんな忍に咳払いひとつした石田女史は、
「そうねェ。こう言うのもなんだけど、私もはやてちゃんのお母さん代わりのつもり・・なのよ。だから、何でも言って」
 ね? と若干テレのある笑みで微笑みかけてみせるのだ。
 そんな年上の二人、特に長いこと付き合いのあるある石田女史に、そんな風に思われていることを初めて知ったはやては、思わず、ウルッといきそうになった。それをどうにか堪え(甘え下手ゆえにそうすることを由としないのだろう)た彼女は、ようやく気がかりになっていたことを吐露し始めたのである。
 おへその下辺りを押さえて、視線を彷徨わせながら・・・。

 はやての相談ごとが始まって暫く。
 すずかが青ざめた顔で医務室を出てきたので、中でいったいどんな話をしているのかと肝を冷やした恭也だったが、保健体育の授業で、気分を悪くする類の話に思いがいたると、彼は忙しくも歩き回っている女性看護師を捕まえ、事情を説明し、すずかを預けたのである。
 幸いにも、軽い貧血程度で済んだらしく、ややもすると恭也の傍らには、すずかの姿があった。
「ありがとうございました。やっぱり恭也さんは頼りになりますね」
 とお礼の言葉ともに、すずかはコーヒーの入った紙コップを差し出してきた。
「そんなことないさ。男ってのはああいう時、何もできずにアタフタするのが関の山だよ。
 今回はたまたま病院だったからよかったけどね」
 と、恭也はおどけて見せるのだった。
 年の離れている彼女に対して、恭也ができるギリギリの会話内容である。これ以上突っ込んだ話をすれば、あとで忍にどんな目にあわされるかわからない。それがわかっているのか、すずかは口に手をあてて小さく笑って見せるのだった。

 その後、はやては回復の経過を見るためにリハビリ室へと誘われた。
 医務室では爪弾きを喰らう羽目になった恭也だが、ここでも同じような憂き目に遭っていた。が、それは彼だけではなく、忍やその隣のすずかも同様だった。
 何故ならそこは、はやてだけが踏み込める戦場だったからである。
 リハビリ室は老若男女、様々な人達が、それぞれ違った内容のリハビリテーションのメニューを、黙々とこなしている最中だった。
 と言っても、そこには重度の患者は一人も居らず、はやてのように快方に向かっている人の姿が多い。ともすればスポーツジムのような印象を受ける場所だった。
 ゆっくりと自転車漕ぎをする老齢の女性の姿があれば、小さなダンベルを持って、大きく腕を回している少年の姿もある。中にはスポーツ用と思しき義足の調整をしている男性もおり、その均整のとれた体つきに、恭也などは感嘆の意を示してみせるのだ。
 そんな人達の中に、はやての姿もあった。
 黒地にレモンイエローのラインの入ったスパッツと、やや大きめの体操服に着替えたはやては、二本の鉄パイプが渡された平行棒の間を、ゆっくりと、だが確かな足取りでまっすぐに歩いていた。手はパイプを触れるか触れないかという微妙な位置で宙に浮いている。
 そんな彼女を、介護担当医が少し離れたところで見守っていた。リハビリは本人の意思を尊重して行われる。担当医が助けが必要と思った時だけ、手を差し伸べる方針だから、彼の態度は決して横柄なものではない。
 彼は石田女史から渡されたカルテに目を通すと、すぐさま平行棒にはやてを誘い、関節や下半身の麻痺の回復状況を確認することにしたのだ。
 はやてが平行棒を一往復すると、彼は組んでいた腕を解くと、初めて表情をゆるめ、「順調だね」と太鼓判を押してみせた。
「本当に二年でここまで回復するとは、正直驚きだよ。完治までは気を抜けないのは確かだけど、ここまでくればもう問題はないだろう。
 でも焦ってはいけないよ。骨格も筋力も、まだまだなんだから」
 幼い頃より車椅子の生活を余儀なくされたはやての下半身は、同年代の子供達に比べると脆弱に過ぎた。そのため性急が過ぎると、骨折や筋断裂、関節炎などを発症してしまう恐れがあったのだ。これを解決する特効薬は、世界中どこを探しても存在せず、ただただ地道なトレーニングを続け、筋肉や骨格を作っていくしか方法はなかったのである。
 もっともリインフォースとの融合を果たせば、それらは強化、補強されるため、そんな面倒をかける必要はなくなるのだが、はやてはそのようなズルを少しも考えず、神妙な面もちで、担当医の言葉に耳を傾けるのだった。
 それは至極当然な事で、健康な体を手に入れれば、それだけリインフォースへの負担を軽くすることが出来る(それに常時リインフォースと融合しているわけにもいかない)。そしてそれは魔力消費の軽減となり、その分余った魔力は、そのまま手数を増やすことへと繋げられる。ひいては、助けられる人々を増やせる可能性が生まれてくるのだ。
 そう考えれば、はやての態度はむしろ必然といえたのである。

 昼を少しばかりまわった頃、大学病院を後にした一行は、まっすぐ月村邸へは戻らず、市営の温水プールへとやってきた。
 はやてとしては、一刻も早くニルヴァーナに戻り、任務に復帰したいところであったが、何かあれば連絡が入るだろうし、それにシャマルの修復がまだ途中であること。そして彼女が残した抗体プログラムの改修と、ニルヴァーナに戻らずとも出来る作業があったので、そちらに注力することにしたのである。
 しかも間のいいことに、なのはとフェイトの二人も、管理局の任務に空きができたとかで、仲のいい友人全員集まる機会を逃してはならじと、急遽パジャマパーティーが開かれるととなったのである。
 それならば、パーティーが開かれる夕方までの時間を有意義に潰しつつ、且つ、はやての体に負担のかからないレクリエーションとして、
「プールに行きましょう」
 忍がそう提案したのである。
 水泳は浮力で身体に与える負荷を少なくできる上に、無理なく体を鍛えることのできる歴としたトレーニング方法の一つである。はやての体にかかる負担を軽くするのは尤もだが、何よりすずかが付き添いで立ち会うことが出来る。つまりは水遊びを通じて、二人ないし三人で遊ぶ、否、訓練に参加出来るのだ。さらには彼女達を目の届く範囲に置くこともできるのだから、恭也にしても願ったりかなったりで、まさに一石二鳥の騒ぎではない。
「それに・・・」
 と、そこで忍は意味ありげな視線を恭也にむけてきた。
「私の水着姿だって見ることができるもんね。
 うれしい? 恭也?」
 素直に答えれば、他の二人にむっつりな人と受け取られるだろうし、否定すれば忍の機嫌が悪くなるのは必定。
 そう考えた恭也は、「ノーコメント」と逃げの一手を打った。
「・・まあいいでしょう」
 腕組みしつつジト目で見つめかえした忍は、
「そんなわけだから、軽く食事した後、水着選びにいきましょうか。
 当然、お昼は恭也のおごりね」
 そんな彼女の一言に、二人が黄色い声を上げるのを目の前で見てしまうと、青息吐息を吐くしかない恭也だった。

     ◇

 休日の午後だというのに、その市営プールはそれなりに閑散としていた。
 季節を考えればさもありなんと思えるのだが、それにしても・・と不安な気持ちにさせるぐらい閑散としているのだ。言うなれば、四人の貸しきりに近い状態である。
 自然、プールに響く声も大きくなろうというものだった。
「わわわ。すずかちゃん、そんな強く引っ張らんといてぇ。足もつれてまう・・わぷぷ」
「ああ! ご、ごめんなさいはやてちゃん。大丈夫?」
「ぷあっ。うん、へーき平気。今度はちょうやさしくなぁ」
「本当、ごめんなさい。
 ・・これくらいで平気?」
「おっけーおっけー。両舷微速よーそろー」
「りょーかーい」
 二五mの競泳用プールの中で、二人は互いに手を取り合い、すずか(姉の奨めでオレンジ系のワンピース。ハイビスカスの大輪が一つ、胸元にプリントされている)が後ろ向きで曳航船のように進み、はやて(黒地に黄色のラインが脇の部分に入った競泳用)がそれに引きずられるようにして歩くという、歩行訓練(あるいはバタ足の練習)の真っ最中だった。
 読書好きである二人は、図書館などで膝を並べて話す機会こそあれ、こうしてプールで遊ぶような機会は皆無の関係だった。なので、最初のうちはどこかぎこちないところがあったのだが、それもすぐに氷解。今ではキャアキャアいいながら、歩行訓練(水遊びの色合いが非常に濃厚)の真っ最中である。
「仲良くやってるみたいね」
 そんな二人を、プールサイドで見守っているのは忍と恭也である。
 デザイン化されたヤシの木がプリントされている薄紫のビキニの上に、白のTシャツを着た忍は、長い髪をフィッシュボーンにまとめ、プールサイドに備え付けのデッキチェアで、リゾートで骨休めしている観光客のように、リラックスしまくっていた。
「ああしていると、泳げない友達の練習に付き合ってるようにしか見えないなぁ。しかし」
 黒のトランクスに薄灰色のパーカーを羽織っている恭也の呟きに、忍は「そうね」と短く頷いてみせた。しかしおもむろに上体を起こすと、
「こうしててもつまんないわ。
 恭也、競争しよう!」
 と、強引ぐまいうぇいで、恭也のパーカーの袖を引っ張るのである。
「あ、水の上を走るのは禁止ね」
 などと、出来もしないことを言いつつ立ち上がった忍は、躊躇なくTシャツをたくし上げて脱ぎすてた。
 その見事な脱ぎっぷりと、形のいい胸の揺れ具合に、思わず見とれてしまった恭也に構わず、その腕をガッシと引っつかんだ彼女は、プールの隅にあるスタート台へと有無を言わせず引きずっていったのである。その様は、とても恋人同士のそれではなく、ガキ大将に引っ張りまわされる子分といった感じそのものだ。
 もっとも恭也としても、このまま何もせずにいるより、泳いだほうが有意義だと理解しているので、そのこと自体に異議を唱えるつもりはない。それに少しばかり格好のいいところの一つも見せておかないと、陰で何を言われるか分かったものではない。という打算的見解も多分に含まれているのだが、口に出して言うべき事でもないので、黙って忍の為すがままになっているのである。
 スタート台に上った恭也は、「負ける気はないぞ」と気合い十分で豪語してみせる。もちろん忍だって、負ける気などさらさらない。
「返り討ちにしてあげる」
 その一言で、二人の間に緊張感が漂い始めるのだった。

「あ、お姉ちゃん達、競争するみたい」
 その様子に気が付いたすずかが足を止め、はやての背後を指差してみせた。
「ほ〜。でも恭也さんて体脂肪率低そうやから、浮かんのとちゃうん?」
「え? ど、どうだろう?」
 はやての素朴な疑問に首をひねるすずか。そんな二人の杞憂をよそに、年上の二人は、ほぼ同時にスタート台から宙へと舞い上がった。そして次の瞬間には水飛沫と共に、水底へと姿を消し去ったのである。
 忍が十mを過ぎたところで水面に浮かび上がり、キレイなクロールのフォームで水を掻き始めたのに対し、恭也はなかなか姿を現さない。すわ、まさか本当に水に浮かないんじゃないかと、小学生二人が心配しだした頃、忍より体二つ分先に、恭也の姿がようやく現れたのである。
 それを確認した二人は、我知らず握っていた拳を緩め、安堵のため息を吐き出すのだった。
「別の意味で、緊張したわぁ」
「そうだねぇ」
 競泳の結果は、恭也の余裕の勝利だった。

 施設のアナウンスで休憩時間に入ると、忍は恭也を伴っておやつと飲み物の買い出しに出ていった。
 残されたすずかとはやての二人は、デッキチェアに腰掛け、完全に脚が治ったら、このプールを往復できるほどには泳げるようになりたいなどと、他愛なくも堅実な話題に花を咲かせていた。
 そんな二人の目の前を、歩きにくそうにしながらも、器用に片足跳びで少年が横切っていった。
 少年のあげた方の足は、パッと見、どこにも異常はなかったのだが、ギプスだの包帯だのを巻いた人間がプールに入れるわけもないのだから当然である。
 ということは、骨折するなどした間、衰えた筋肉を鍛えるため、はやてと同じように、リハビリ目的でここに訪れたという事になる。
 はやての車椅子を押すなど介護経験があるすずかは、それを見るや否や、彼に手を貸そうと声をかけようとしたのだが、それよりも早く、彼は先ほどまで二人が利用していた競泳用プールのプールサイドに腰を降ろしてしまったのである。そして、自分の脚の調子をみるように、ゆっくりとバタ足を始めたのだ。そうなってしまっては、すずかが出る幕などありはしない。
 彷徨わせる形になってしまった手を、気恥ずかしそうに引っ込め、「失敗失敗」と小さく舌を出したすずかを見たはやては、
「私もバタ足しよっかな〜」
 とポツリと漏らしてみせた。
 あまりにも明け透けすぎて、はやて自身、わざとらしすぎるなぁ。と内心苦笑いするのだが、目の前の友人は、そんな彼女の心中を快く受け取ったのである。

「お隣失礼しますぅ」
 無言のまま、ばた足をするつま先を見つめていた少年は、不意に声をかけられて、少しばかり面食らった表情をしてみせた。
 その視線の先には、二人の女の子が立っていた。一人は朗らかな笑みを浮かべ、もう一人の女の子に肩を預けている。そしてそんな彼女を支えているもう一人女の子は、気の小さそうなはにかんだ笑顔を浮かべている。
 そんな二人を一瞥した少年は、「どうぞ」と快諾してみせた。
 お互い健常者ならば、ほとんど人のいないようなプールで、何を好き好んで隣に来るんだ? 逆ナンするにしてももっと場を選べ! といぶかしむところだが、お互いリハビリ目的でここを利用しているのだから、助け合って当然と考えるのは至極当たり前といえよう。
 だが二人の視線が絡んだその瞬間、二人はあることに気づいたのである。
「あ、お兄さん・・・」
「あれ? 君は・・・」
 そう。彼は鳴海大学病院の屋上で、飛ばされたはやてのストールを拾い上げた少年だったのだ。
 だが彼は、旅行中に怪我をした仲間の見舞いに来ていただけで、プールでのリハビリが必要な怪我はしていなかったはずである。その彼がここにいるというのは、一体どういうことなのだろう?
 そんなことを脳裏に思い浮かべるはやて。
 そしてそれがいけなかった。
 滑らないように人一倍気をつけていた足がもつれ、体がプールの方へと倒れこんだのである。
 しかも間の悪い事に、すずかの支えは、彼女が座ろうとしたので離された直後だったのだ。
 そして少年は、ほとんど反射的に身を乗り出し、はやてを抱きとめようと両手を伸ばしていたのである。
 だが、最早プールに落ちることが確定的なはやての体を抱きとめようというのは、酷く無理がある行いである。彼もまた、プールに飛び込む結果にしかなりえないのだから。
 そしてまたもや手を彷徨わせる形になってしまったすずかの目の前で、ドッポ〜ン! という大きな音と供に、派手な水しぶきが上がったのである。

 ダメ。落ちる!
 と、直感したはやては、ギュッと目をつむり、胸の前できつく両手を抱き合わせた。そして次の瞬間には、全身が水に沈んだ感覚とともに、纏わりついた空気が泡となって水面へと上がっていくこそばゆい感覚も得た。でもそれとは別に、誰かに抱きかかえられていると、脇から背中へとまわされている腕の感覚でわかったのである。
 だがしかし、鼻先に知覚できるそれは、これまでの人生で、一度も感じたことのないものだった。
 なんやろう・・・?
 その不思議な感覚に、はやては水中であることも忘れて薄目を開け、確かめた。

「えーと・・・」
 またもや彷徨う形となった手をそのままに、すずかは固まっていた。
 自分で言うのもなんだが、運動神経はいい方だと自負している。にもかかわらず、この間の悪さはなんだろう? 今日は運勢が悪いのだろうか? そう言えば今朝、TVの星占いのコーナーを見逃していた。
 などと取りとめもないことを考えつつも、身を乗り出して二人が落ちたプールを凝視する。
 おそらく人命救助の場数を踏んだ人間であれば、こんな時、とにもかくにも落ちた者の安全確保に動くのだろうが、そんな経験のない彼女に、そのような行動を期待するほうが間違っている。
 そんなすずかの視線の先に、水深一mのプールの底を、折り重なるようにして、ユラユラと漂っていく二人の姿が見えた。が、なにやらお互いの顔の距離が妙に近いような気がするのは気のせいだろうか?
 二人の間にゴパッと大きな気泡が生まれたのは、すずかがそんなことを考えていた矢先であった。
 そして身を縮こめていたはやてが、手足を突っ張り、水の中で少年を突き飛ばしたかと思うと、ジタバタと手足を動かして、潜水艦よろしく緊急浮上してきたのである。
 水深一m程度のプールでも、まかり間違えれば溺れること必至なのだが、この時のはやては、これまでの人生で一番の重大事に直面していたため、そんなことすら思い至らない様子だった。
 濡れた髪から滴り落ちる水もそのままに、両手で顔半分を覆い隠した彼女は、耳まで真っ赤に染め、ただただその場に立ち尽くしていたのである。


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