魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−



   ― Digression. II ―

 第十四管理世界『ローエングリン』。その地方都市である『エーデルハイネ』。
 スイスのアルプスのような高山地帯が広大に広がるその世界は、彼の地がそうである様に、風光明媚な観光地として発展を遂げた有数の時空世界。そんな世界各地に点在しているこうした都市の数は、大小の違いこそあれ五百を有に超え、観光資源として多くの富をもたらしていた。
 そうした観光地的都市であるエーデルハイネから離れること二百km。そこにとある企業の保養施設があった。
 自然景観を損ねることの無いよう配慮された結果、地上二階、地下十階建てといういささか異質な構造とはなっているが、見た目の上では瀟洒な白亜のホテル然とした施設だった。
 とは言え、見た目以外の点においても、そんじょそこらのホテルとは一線を画した立派な施設だった。
 三千m級の高山が頂く万年雪から得られる雪解け水は、その敷設された浄水施設によって、ミネラル豊富な天然水として。千mもの地下から得られる熱を利用した地熱発電は、施設全体の電力を賄うばかりか、周辺地域住民に年間を通して供給できるほどの能力を有していた。そればかりか、それら二つを併せて運用している温水保養施設は、一般に無償開放されているため、この周辺地域での企業の好感度は、地元の議員なんか足元にも及ばないほどだったのである。
 だがそんな施設の地下に、公にされていない十一階と十二階がある事を知っているのは、極限られた人間だけだったのだ。
 そんな企業の重役すら知られていないその施設には、特殊ポリマーでコーティングされた、用途不明のシリンダーが十数基設置されていた。シリンダーは直径百二十cm、高さ三mを超えるものばかりだ。そんな秘匿された施設に安置された特大のシリンダーの中に、ホルマリン漬けにされた標本があるわけがなんであろう。
 無色透明の培養液が満たされたシリンダーには、人間の姿が勿論ある。だがその隣のシリンダーの中には、人間ではないモノが浮いていたのだ。四本足の肉食獣から鳥類、魚類。果ては鱗に覆われた皮膚を持つニンゲンのようなモノ、etc・・・。
 それらがあることからも、この施設が如何に秘匿された施設であるか十分に分ることだろう。そればかりか『部外者に知られることは、決して好ましくない』類のものであることも。
 そうしたシリンダーの中身を一瞥しつつ、基部に備え付けられたディスプレイに表示される情報を、つぶさに見ては手にしたノートに記録してまわる一人の人物がいた。
 白衣を纏っていることからも、この人物こそが、ここで何がしかの生体実験を繰り返している張本人であることは、一目瞭然だった。
「・・・・・・」
 藍色がかった長い髪をそびやかすままのその風体は、何とも不思議な色合いをした碧眼とスリムな長身と相まって、中々の美丈夫に映った。仮にこのような薄暗がりばかりの施設から外へと踏み出し、観光地を闊歩しようものなら、有閑マダムがダース単位で群がってくるに違いない。しかしこのような人を遠ざけて余りある空間にあっては、無用の長物でしかない。
 そんな彼の表情は努めて暗かった。どうやら実験の結果が芳しくないらしい。
 やがて彼は小さく嘆息を一つつくと、基部のディスプレイ脇にあるコンソールを操作しはじめた。
――生命維持機器系統、・・停止。
――循環ろ過機器系統、・・停止。
――調整槽全モニタリング、・・完全停止。
 ディスプレイ上に続々と機能が停止していく様が映し出されていく。それと同時、シリンダー内に漂っていた実験動物が、ビクリと身もだえした。が、それが次第にビクビクという痙攣するそれに変わっていくと、大きく開けた口からゴボッと盛大に泡と鮮血を吐き出した。そしてついには、実験動物は微動だにしない肉塊へと代わってしまったのだ。
 その様を見届けた白衣の人物は、僅かに頭を垂れて短く黙祷をささげてみせた。しかしその表情は極めて事務的で、とてもこの実験動物に対して、何がしかの思い入れがあった様には見受けられなかった。
 だから、ブーッという短いブザー音と共に、巨大なシリンダーが基部から外れ、轟音と共に廃棄用のダストシュートへと姿を消す段になっても、眉一つ動かさず、そして顔色一つ代えなかったのである(廃棄物は全て、地熱発電に利用するマグマ黙りへと投棄される仕組みになっている)。そればかりか、彼の頭の中はもう既に、次の実験動物に対する研究プラン構想が渦巻いていたのである。
「ギース様」
 ブザーの音が消え去り、再び静寂に包まれたその研究施設に、女性の声が響いた。このような穴蔵生活をしている彼の元に、尋ね人が来ることなど極めて異例な事態であった。
「・・やぁ、久しいねローラン。幹部会のお歴々は健在かな?」
 ローランと呼ばれたその女性は、藍色のパンツルックのスーツに、大粒のエメラルドをあしらったシルクスカーフをリボンタイのように巻いて着こなしてみせていた。トータルコーディネイト的に見れば、まるで清流の宝石であるカワセミのようだった。
 そんな敏腕秘書然とした出で立ちから察するに、彼女はこの研究施設ばかりか、階上の保養施設を運営する企業に所属している者なのだろう。
 ということはこのギースと呼ばれた白衣の男もまたは、その企業に雇われた研究者なのだろうか?
「健在ですわ。あなたを目の敵にするレーベンブロイ様にいたっては、毒などもっても死なないほどに」
「それは何よりだ」
 冗談ともつかないやり取りをした後、二人は微笑をたたえながらその研究施設を後にした。
 道すがら交わされる会話の内容は、どれもこれもこの隔絶された空間の外での出来事ばかり(バイオマテリアル産業の株価指数の推移から、コングロマリットの経営陣周囲の出来事。果ては近所に住み着いた記念指定動物のつがいの様子など)で、つまらなくも平和な内容ばかりだった。
 勿論、このような地下施設に四六時中いることの多いギースにしてみれば、外界の情報はそれなりに有益なものだった。だから二人の様子を端から見れば、性別を越えてなお仕事を交えた良き友人同士ととらえることも出来たのである。
 そんな二人が、施設の秘密区画内に用意されたラウンジに現れると、常設されているサービスロボットが音もなく二人に近づいてきた。
「私はいつものを。君はどうするね?」
 ギースは、研究中であろうとも息を抜くときは徹底的にする主義らしい。だからアルコールの注文をしてみせようとも悪びれた様子も見せなかった。とはいえ、有事には体内にインプラントされたナノマシンを動員すれば、酒精など一分と掛からず分解されるのだから問題にすらならない。しかしそれは『酔いつぶれる』という人間に許された特権すら、ままならないことを意味したのである。
 そんな彼に架せられた悲劇など望外の極みなのか、ローランは少しも声色を変化させることなく、同じようにサービスロボットに注文を告げてみせた。
「リルトネー(紅茶の種類らしい)を」
「はい・ぐろうんノでぃんぶらガゴザイマスガ?」
「ではそれで」
「カシコマリマシタ」
 簡潔なお辞儀をしてみせたロボットは、来た時と同様、音もなく奥のカウンターへと姿を消していった。
 それを気にした風でもなく、ギースはローランに奥にあるブースへと案内してみせた。その立ち居振る舞いは堂に入ったもので、どこかのホストクラブで勤めていた経験でもあるかのようだった。
 そんな彼の所作にクスリと小さな笑みを浮かべてみせたローランは、案内されるがままに、指し示されたブースのソファーへと、深くその身を預けてみせる。
 そうしてようやく彼女が腰を落ち着かせるのを確認したギースは、対面のクッションの効いた牛革にも似た感触のソファーに身を沈めこむと、これまたどこのファッションモデルかと言わんばかりの所作で、優雅に足を組んで見せたのだ。
 一連の動作の一つ一つが気障に写ることこの上ないのだが、彼がするとイヤミに写らないのは、やはりその容姿と身に纏う貴族然とした風格に起因しているからだろう。
「それで。君がわざわざこんな辺境くんだりまで足を運んできた理由を聞かせてもらおうじゃないか。何か面白い事が起きたんじゃないのかね?」
 ソファーの肘掛に頬杖を付きながら、ギースはさらりと話題を転じてみせた。勿論、これまでの会話が不快なわけではなかった。が、虚飾と豊楽の有閑にひたるほど、彼は人生に飽いていなかったのだ。
 そしてそれはローランとて同じだったらしい。
「『ゼーレ』・・この名前に覚えは?」
 と、これまでと打って変わって、目の前の女性は、幾分声のトーンを落とし、単刀直入に問い質してきたのである。
 しかし問われた方は、なんだそんな事かと落胆の色を隠しもしなかった。
「・・もちろん覚えているよ。テロメア消失遺伝子の増殖評価用に作った実験体に与えたコードネームだ。それが何か?」
 事も無げにあっさりと答えるギースに、満足を笑みを浮かべてみせたローランは、
「その実験結果はどうなりました?」
 と質問を繰り返した。対してギースも、大した疑問を抱かずに即答してみせる。
「うむ。三十例ほど実験体を作ってはみたものの、無限増殖を繰り返すが故というのかね? 世代を重ねるごとに情報欠損が激しくなっていくことが分ってね。最終的に使い物にならないと判断して廃棄処分にした」
「・・増殖するたびに手間が掛かると?」
「そう。もっと言えば『バカ』になっていくんだ。
 細胞は無限に増殖し欠損したものをすぐに補って再生するんだが、記憶や経験といった情報まで復元する事は困難ということだね。
 しかしそれでは諜報どころか破壊活動にだって使えやしない。出来て陽動や後方撹乱だ。開発コストの割りに、できる事がそれでは目も当てられない。
 なんと言ったか? 何年か前にそういった記憶や情報を保持したまま、個体の復元を計った研究の話を聞いた事はあるが、そこまでしてこの研究に組み込む必要性などないと判断してね。
 だってそうだろう? 癌細胞となんら変わらない悪質な単細胞生物など、私の研究に役立つわけがないじゃないか。
 無用の長物。廃棄して当然」
 一笑に付した彼は「詳しいデータはこれだ」と一つ呟き、どこからともなく取り出してみせたデータカードをローランの目の前に置いてみせた。だが、彼女が欲しかった答えはそれではなかったのだ。
 目の前の男から、意外にもあっさりと該当する解答を得たとはいえ、それはあくまで、彼ら『ゼーレ』の出身がここであるということだけだ。彼女が本当に欲した情報は、更にその先にある。
 だから彼女はそのカードを受け取りもしなければ、一瞥すらしなかったのである。かわりに、フーッとゆっくり溜息を吐き出し、胡乱な瞳で対面の男を見やったのだ。
 そんな態度の意味するところを察せないほど、ギースは浮世離れはしていなかった。
「・・まさか生き残っていると? あの失敗作が?」
「或いは、あなたの実験データをハッキングした誰かの仕業かもしれません・・・。
 いずれにせよ、幹部会は難色を示しています。我々の存在はまだ公になるわけにはいきませんので」
 キッパリと、冷徹に答えてみせる目の前の女に疑いの視線を送る事もせず、ギースは顎の先に右手を当てて、渋面を浮かべてみせた。
「ふーむ。にわかには信じ難いが・・いや、君を疑ってはいないよ。冗談や偽装された情報などで動くはずがないことは、十分に承知しているからね。
 もちろん、私の側から漏れたいうこともありえない。請け合ってもいい。私が管理している情報は、この施設とは切り離されたクローズド・ネットワークで管理しているから、盗むにしても、物理的に接続しないことには絶対ムリだ。無論そうしようにも、この閉鎖環境に近づく事だって不可能に近いことは君が一番分っているはずだ・・・」
 訥々と自己弁護の見解を告げるギースは、事ここに至って、ようやく彼女がここに赴いた理由に気がつき、そして合点がいったのである。
「・・まさか私が疑われているのか? 情報を外部に売り渡していると?」
「レーベンブロイ様やその周囲から、そのような意見も出ています」
 けんもほろろな即答に、まいったな。と小さく呟いて、ギースは天井を仰ぎ見た。
 そんな大仰にしてみせる彼を見て、ローランは初めて、小さく僅かに唇の端を歪めてみせた。
 彼女は、目の前の男を個人的には疑っていない。研究一筋と言って良い彼の性格は、損得勘定で研究内容を外部に漏らすようなものではなかったからだ。だが幹部会にしてみれば、彼女個人のそのような見解ほど無意味なものはない。そしてその程度で信用が得られるような秘密組織であるならば、井戸端会議でされる『ここだけの話』程度のセキュリティしか期待できないというものだ。
「『ゼーレ』と名乗る者達の、これまでの活動内容をこちらに纏めてあります。検証していただけますか?」
 そして彼女は右の薬指にはまる指輪型のストレージデバイスから、データカードを排出。ギースに手渡した。それを受け取るなりギースは、
「つまるところ、裏切っていないと言うのならば、その証拠を見せろ・・と」
 渋々といった表情で呟きながらも、早くもデータカード内の情報の検証に当たり始めたのだ。瞬く間に意識は五感を遮断し、己の内に沈み込んでいく。
 そんな彼の様子に、満足の笑みを浮かべるローラン。そしてそんな彼女の目の前に、音もなく、琥珀色の液体をたたえたカップとソーサーが、ミルクポットと角砂糖と共に置かれたのはその時だった。僅かに視線を動かすと、そこには先程のサービスロボットの姿がある。
「オマタセシマシタ」
 古めかしい無機質な合成された音声とともに会釈をしてみせるサービスロボットは、Yシャツ、ベストに燕尾の上着、そして赤の蝶ネクタイというボディに、角を落とした逆三角錐状の頭部に昆虫のような複眼式のカメラアイをもった、いかにも古めかしいデザインで、執事然とロボットだった。
 彼女の記憶が確かならば、十年以上も前のモデルのはずだった。
 そんな機体を未だに利用し続けているというのは、いささか企業イメージに悪いのではないか? と彼女は危惧したものだが、それはすぐに翻ることとなった。
 ロボットが入れた紅茶が、あまりにも見事だったからである。
 セイロン茶のように、薔薇のような香りを放つそれは、徹底した温度管理と完璧な抽出方法によって注がれた至高の一品に仕上がっていた。新茶のシーズンから外れた時期であったから、最盛期のそれよりは明らかに風味は損なわれているにしても、それでもロボットの入れたそれは、いわゆる『お茶酔い』を誘うほどに完璧だったのである。
 なるほど。これならば十年前の機体であっても利用し続ける甲斐はある。
 事ここにいたって、このロボットがクラナガンにおいては、サービスロボット製作の老舗ともいえるワトソニアン社の製品であることに気づいた彼女は、個人として投資しても悪くない。と心に決めたものである。
 そんな、一人満足の極みにいるローランを無視し、ギースは収穫を上げて悦に入っていた。
 与えられたデータは、ほぼリアルタイムで彼の地で起こっている内容を映し出していた。何故最前線の情報が、そこまで詳細に入手できているのかは気になるところだったが、彼とってそんなことなど埒外でしかない。しかし続々と送られてくる情報の中で、彼が最も興味を抱いたのは、わずかに入手できたとされるDNAサンプルのデータだった。
 彼が持っている廃棄した実験生物のデータには、人型や蛇竜といった戦闘形態は存在していなかった。開発計画の最終段階に入った頃に付加するはずだったそれは、研究の最初期に生み出された彼らには、与えられなかった機能なのである。
(にも関わらず、その機能を有しているとは、驚きだ!)
 果たして『驚き』の一言で片付けてしまって良いものか判断に苦しむところだが、だがDNAサンプルのデータは、彼を確実に驚嘆させたのである。
 手持ちの資料に残っていたDNAとサンプルのそれを付き合わせて比較したところ、なんとその誤差は○・三%以内だったのだ。
 人と猿のDNA情報の誤差は三%以下だといわれている。たったそれだけの差であっても、違いは顕著になって現れている。ならば○・三%という差異は、どれほどのモノだといえるのだろうか?
 ギースは我知らず、ブツブツと独りごち始めた。
「廃棄時から数えて六年という時間経過を鑑みれば、無限再生による揺らぎ(1/fノイズ?)から生じた誤差範囲内だろう。第三者による修正が加えられたのならば、もっと際立った違いが現れても良いはずだ。
 となれば間違いない。『ゼーレ』と名乗る魔法生物達はこの施設の出身だ。
 しかし腑に落ちないのは、どのようにして、あの廃棄施設から這い上がった? デバイスをどこから調達した?
 いや、そもそも彼らは、『セフィロト』などというロストロギアの存在を、どのようにして知りえたのだ? 更には、それを使って何を成し遂げようというのだ?」
 興味は尽きない。が、それらは追々、これまでの詳細を記した情報同様、彼の手元に届けられるだろう。それを待てばいいだけのことだ。
 だがしかし研究者の性か、やはり自らの手で調べたいという欲求が、後から後からわき上がってくる。その最たるモノはと言えば、無限再生を繰り返す度に、崩壊、欠落していくはずの記憶や情報を、どのようにして保っているのかということだった。
 渡された情報によれば、三度の全損後に完全再生を果たし、尚戦闘を継続しているという。残してあった記録の通りであれば、とうの昔に人間形態をとることも困難になっている状態なのだ。だのに彼らは執拗にロストロギアを追い、管理局と敵対しているという。これは、その欠点を克服しているとしかとらえようがない事実だ。廃棄後の六年という時間の中で、一体どのようにしてこのような機能を手に入れたというのか。自己発生、もしくは進化したというのならば、その過程を是が非でも知りたいと思って当然だ。
(これほどの革新的な変化が、たった○・三%の揺らぎの中から生まれるとは・・・ッ!
 おもしろい! 実に面白いッ!)
 ギースは知らず知らずのうちに、ククと喉を鳴らすような低い笑い声を洩らし始めていた。果たして、これほど研究者の探究心をくすぐる事象があっただろうか? いやあるまい!
「ローラン! 何とかしてこれを回収して、ここに連れてくることは出来ないかッ?
 私は調べてみたいんだ。これを! 隅から隅まで!」
 やおら顔を上げた彼は、掴みかからんばかりの勢いで、紅茶を堪能している最中のローランに詰め寄った。その勢いは、なにやら大発見でもしたような幼稚園児のそれに近しいモノがあったのだが、しかし詰め寄られた方は、全くの不意打ちであったために、動揺を隠しきれなかったのだ。
 身を護るようによじってたじろぎの態度を盛大に示して見せた彼女であるが、それでも努めて冷静に、ティーカップをソーサーごと静かにテーブルに置くや、胸元のポケットに忍ばせておいたハンカチーフで口元を拭ってみせるのは、流石の一言に尽きる。
 いつ如何なる時であろうとも、見目麗しくあれ。
 幼少時より躾けられた礼儀作法に則って、優雅に口元の乱れを正したローランは、カミソリのような怜悧な視線をギースに抜き放ち、忘我の極みにあった彼をして「これは失礼」と、短く謝罪させることに成功したのである。
 だが次の瞬間、「それは無理です」と一言で一蹴してみせたのだ。
 そんな彼女の態度に、ギースが食ってかかるのは当然だ。半拍おかずに「何故?」と追求するのだが、
「この件に関して、管理局内部でも既に複数の部署が動いていることが分っています。
 如何に管理局との間にコネクションが存在すると言いましても、これらを押さえるには困難を極めます。
 またそれが出来たとしても、あれを秘密裏の内に、ここに連れてくるなんて容易には出来ません。一体どれだけの人間がこれに関わっているのか考えれば、幼児でも分かることです。違いますか?」
 と、にべも無くあしらわれてしまえば、それ以上、何も言えなくなってしまうのだった。
 だがそれでも、尚言い募ろうとするギースではあったが、再びティーカップを持ち上げ、紅茶を楽しみ始めた彼女の断固たる拒否の姿勢を前にしては、力なく崩折れるようにしてソファーに身を沈む意外に、選択肢は残されていなかったのである。
「そう・・だね・・・。確かに君の言うとおりだ。うん・・・。
 確かにあれが手に入ったとしても、私はもってあと数年の命だ。研究に携われるのも、あと一年ほどだろう。志半ばで放棄する事が分っているのに、あれもこれもと抱え込もうとするなんて、小さな子供の我が侭と一緒だな。
 諦めが寛容・・というわけだね」
「・・ヘイルズ様に引き継がれてもよろしいのでは?」
 ギースの寿命宣告を聞いてなお、ローランは驚いた素振りも見せず、しかし余りの意気消沈振りに、幾らかでも罪悪を感じでもしたかのように、代替え案を掲示してみせた。
 だがその問いに対して、ギースは首を横に振るのだった。
「あれはあれで、やる事があるはずだ。
 それに私のような穴倉生活を嫌って飛び出していったような輩だよ。死んだ者が遣り残した研究になんて興味を持つはずがないさ・・・」
 ギースはこの場にいない者の性格を十全に理解した上で、断定の言葉を口にしてみせた。
「かと言って、会った事もないジージスに期待するわけにもいくまい」
 そう呟いたギースは、テーブルの上に置かれたままになっていたグラスを持ち上げるなり、それに注がれていたウィスキー(ツーフィンガーで割られたもの)を一気に飲み干した。
 しかしやおら「時間が足りない!」と声を荒げたギースは、万年雪で出来た氷が奏でる透きとおった音を愛でる事もなく、サービスロボットに二杯目を要求したのである。
 普段の飄々としたギースの性格を知るローランにとって、そのような荒々しい飲み方をする彼の姿は意外に映ったモノだ。彼のような、研究のためには独善的になれる男であっても、志半ばで逝かなければならないという『死』への恐怖、葛藤というものが存在していたこと自体に、驚きを禁じ得なかったと言っても良いだろう。
 ギースの寿命はまもなくついえる。それは定められた運命だった。不治の病だとか寿命だとかそういうモノではなく、わずか『二十年で死ぬように作られた存在』だったのだ。しかし彼は人間だ。ゼーレと同じく作られた存在ではあったが、まず間違いなく人間だったのだ。ならば『死の恐怖』というモノに対して、不安や恐れを感じないわけがない。自分以外の誰かが死んだところで痛くもかゆくもなかったが、自分が死ぬということに対しては、あからさまな拒絶の意志が働くのだった。そういった意味でも、彼は『人間』だったのだ。
 ならばその不安と苛立ちを、一時の酒の力で消し去ろうと考えるのは当然のことだった。しかしそれは余りにも浅慮な考えでもあった。生まれ落ちたばかりの時は、そうすることに何の意味も見いだせなかったものだが、今ではよく分かった。浅慮であるが故に、簡単に現実から、つらい事実から目を背けることが出来る。逃げることが出来る。
 それに気づいた時から、彼は酒の魅力に捕らわれるようになったのだ。
 そうしなければ自らを保てない彼は、やはり『人間』であり、そしてどこまで行っても弱い存在なのかも知れなかった。
 その一助になるならば。
 だからローランは「付き合います」と言葉少なめに呟やくと、サービスロボットにボトルとグラス、そして万年雪の氷を持ってこさせたのだ。
 サービスロボットは先程と同様、音もなく現れた。そして持ってきたボトルは、マニア垂涎の一品と評されるスコッチの十弐年物だった(筆者は酒飲みではないので、その良さは皆目見当も付かないが)。
 ボトルと一緒に運ばれてきたナイフで、封印のリボンを切り飛ばし、小気味の良い音をさせてコルク栓を捻ってみせる。すると開封されたその口からは、芳醇な香りが立ち上ってきた。それを楽しみ、満足の笑みを浮かべたローランは、手馴れた手つきでグラスに氷を入れ替えると、琥珀色の酒精を、これまた心地よいトクトクという音と共に注ぎいれ、ギースに差し出した。
 そんな彼女の一連の動きを、額に右手をあてがい、懊悩を現す彫像のようにして見つめていたギースだったが、グラスを差し出すローランの白くたおやかな指先に、まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のように、目を奪われた。果たしてそれが、天使が差し出した救いの指先に見えたかどうかは彼のみぞ知るところだが、しかしもう一つのグラスを掲げ、乾杯を待ちわびている女性の姿を認識した彼は、ノロノロとした動作で上体を起こすと、恐ろしく覇気のない仕草でグラスを掲げもってみせたのだ。
「・・ガスパール様の二十年に・・・」
 互いに掲げたグラスの向こう側にお互いの姿を認めながら、ローランが小さく呟いた。
「・・その名で呼んでくれるな。
 頼む。これまで通り、ギースと呼んでくれ。
 我が短命なるも、無限なるかな欲望に満ち満ちた生涯に・・乾杯」
 チン・・・。
 クリスタルガラス同士が重ね合わされた時特有の、硬質で小さな音が響き渡る。そして二人は、静かにグラスを傾けあうのだった。

 ギースは試験管の中から生まれ出でた人造生命体であり、失われた古代の秘法を解き明かす研究のためだけに産み落とされた存在だった。
 だから彼は、自身に与えられた『ガスパール』などという名前に愛着など持っていなかったし、その意義すらも見出せていなかったのだ。
 それだけではない。
 彼の前にも同じようにして生を受け、同じように二十年かそこらの短い人生を全うして死んでいった者達がいたのだから尚更だ。
 そして彼の後にも、同じようにして生を受け、生まれてくる者達がいることだろう。来る日も来る日も、狭い檻の中に閉じ込められたまま、くだらなくも悲喜劇に富んだ実験、研究、探求の日々を送り続けていく者たちが。
 そんな自分たちに対して、『名前を与える』ことに、一体どのような意味があるというのか。ケージに閉じこめられ、半年足らずの内に死を迎えるラットと同じような存在である自分たちに、そんなモノがいったい何の役に立つというのか。ただ人との接触の際に、有った方が困らないという理由だけで与えられる『名前』に!
 なればこそ、生まれる前から与えられていたコードネームの、その略称で呼ばれることを、彼は好んだのだ。
 彼のコードネームは『G’s』。故にギース。『七番目に作成された者』という意味だ。
 そしてギースに遅れること十年。彼の弟的存在として生を受けた人造生命体が『ヘイルズ(H’s)』の略称で呼びなわされ、それとは別に『ヘルメス』の名前を与えられたのだ。更に遅れること十年。『ジージス(J’s)』がまもなく活動を開始するという。彼にどのような名前が与えられるのか、まもなく死を迎えるギースにとってはどうでも良い瑣末事だった。血を連ねた家族であれば、弟に対して思うところもあるのだろうが、互いに試験管の中から生み出された存在であれば、その様な感情など想起されるはずもない。ましてや、残される者、生まれてくる者が、これからどのように生きていくのかなど、関心を寄せること事態、文字通り、時間の無駄使いというものだ。
 残された一年余りという短い時間。その限られた時間で、一体どれだけの研究ができるのか? どれほどの成果が挙げられるのか? ただただその一点に、彼は関心を傾けねばならないのだから。
 ならば行動しよう。貪欲なまでに、知の渇望を満たすために。
 ならば探求しよう。無情矛盾ばかりの、この世の理を解き明かすために。
 ならば邁進しよう。この儚い命が燃え続ける限り、遠き遙かな理想郷を求めて!

 ギースは、己の本分を思い出した。そしてインプラントしたマイクロマシンを活性化させ、酒精を瞬く間に分解してしまった。この様なところで酒に溺れている時間があるならば、少しでも研究を進めた方が建設的だと、まるで天の啓示を受けたように思ったからだ。
 同じようにアルコールを摂取し、薄桃色に染まる頬をした魅惑的な女性(どうやらアルコールには弱いらしい)を目の前にして、だがギースははっきりと告げたのである。
「ローラン。残念だが君との時間もここまでだ。私にはやらなければならないことが山ほどある事を思い出した。それらを放り出し、無為に時間を費やすなど、我慢ならなくなってきたのでね。
 失礼させてもらうよ」
 シュタッっとばかりに右手を挙げて、別れの挨拶もそこそこに突然立ち上がったギースは、ひどくもっともなことを高説じみた口調で一息にまくし立てるや、白衣を翻し、研究施設へとつづく扉の奥へ、颯爽と姿を消していってしまった。
 そんな彼を、トロンとした憂いの瞳で見送ったローランは、
「・・ふられたようですねェ・・・」
 残念と言わんばかりに、色っぽく溜息をついたのである。
「ああ。忘れるところだった」
 不意に足音も立てずに戻ってきたギースが耳元で囁いた。そんな不意打ちに、わずかに体を起こしてとまどいの視線を向けてくるローランに何も言わせず、
「連中に関する検証結果をこれにしたためておいた。ご老体その他の方々によろしく伝えてほしい」
 ギースは用件を手短に伝えながら、彼女の上着の胸ポケットにデータカードを押し込むと、膨らみの上から軽く一たたきするなどして、再度颯爽と歩み去っていった。
 そんなセクハラ行為に、左手で軽く胸元を押し抱き、握りしめた右手を振り上げたローランであったが、その視界の中に、殴る相手の姿はすでになかった。
「ん、もう!」
 だから彼女は軽い憤慨の声を上げた後、ギースが姿を消した扉に向けて、
「ベ―――――ッ!」
 大きく舌を突き出したのだ。

   ◇

 実際のところ、ギースはほとんどゼーレの正体を掴んでいた。
 ローランより渡された情報には、管理局の魔導師が『捕食されかかった』という事象が記されていた。彼はこの捕食行動に注目した。
 これこそが、DNA情報の誤差○・三%の原因だ。
 恐らくは、六年前に廃棄処分した際、地下のマグマ溜りに沈みきらなかった細胞片があったのだろう。そしてその細胞片は、幸運にもマグマ溜り周辺に自生していた苔や微生物、果ては、同じように廃棄された残飯を漁りにきた鼠などを捕食しながら生き延びたに違いない。そして彼らは地上を目指したのだ。

 時間は六年前に遡る。
 建設機械の設計技師であるアルベルト・ターナーは、度重なる総務部からの陳情にも似た嫌味により、三年ぶりに取得した一ヶ月に渡る長期の有給休暇を消化するため、ここエーデルハイネにある保養施設に、家族共々訪れていた。
 仕事一辺倒で、ろくに家族サービスもしていなかった彼ではあるが、部内でも知らぬ者がいない子煩悩でもあったのだ。その為、休暇中はスキーに釣りにと、二人いる子供たちとともにトコトン、心行くまで遊び倒すことにしたのである。
 最初の二週間は天候にも恵まれ、また大したトラブルにも見舞われず、思い出深いものとなった。子供たちは言うに及ばず、夫人もまたこの長期休暇を心から楽しんでいたので、マイホームダディの面目躍如となったのは言うまでもない。
 ところが次の一週間は、季節外れの寒波による猛吹雪に見舞われ、施設に閉じ込められる結果になってしまうと、マイホームダディの面目は丸つぶれだった。
 が、施設内にはスポーツジムや遊戯施設も充実していたので、子供たちはそれほど天候の悪化に頓着はしなかったので、ダディは胸を撫で下ろすことができた。
 しかし施設側はある問題に直面し、頭を抱え込んでいたのである。
 それは、宿泊客百名あまりに供する食糧の問題である。
 施設には電気や温水を分配するパイプと、これを整備するためのトンネルが併設されていたが、食料品などは地上に敷設された一般道路を使って、毎日輸送されるようになっていた。しかし奇跡はずれの吹雪により、道路が寸断され、輸送がストップしてしまったのだ。チーズや燻製肉など、保存の利くものはまだしも、野菜などの生鮮食品がそう何日も保つわけがない。
 輸送がストップしてから早三日。こんな吹雪が一週間も続くとは夢にも思わなかった施設の管理責任者は、緊急事態と判断し、施設の閉鎖を決断したのである。
 とはいえ、下山のために宿泊客を猛吹雪の只中に放り出すわけにはいかないし、そんなつもりも毛頭ない。だから彼は、配管施設の整備用トンネルを利用することにしたのである。これならば遭難するような危険を冒すことなく、温水保養施設の地下施設に非難することが出来る。電話などの通信設備もこのトンネルを利用しているので、避難した際の受け入れなども、万事抜かりなしの状態だ。
 万端の手はずが整ったことを確認した彼は、宿泊客を先導して、避難を開始した。
 施設を利用していた大半の大人たちは、抱える荷物の多さが災いし、時にはつっかえるほどに狭いトンネルに非難囂々だったが、時ならぬ探検ゴッコに興じることになった子供たちは、喜色満面になったのは言うまでもない。そんな子供たちの中には、当然アルベルトの子供たちも含まれていた。
「忘れ物した!」
 そんな声が上がったのは、出発してから三十分が過ぎたころだった。
「出る前に確かめなかったのか?」
 アルベルトは渋い顔を浮かべて、半べそをかいている弟のアーネストを睨みつけたものだ。
 途中、点検用の用具置き場として敷設された待機所(トンネル内に計三箇所ある)にて小休止をしていた一行は、慣れない坑内踏破に早くも疲れた表情を浮かべていた。
 施設管理者の話によれば、あと一時間は、この狭いトンネルと悪戦苦闘しながら進まなければならないという。そんな話を聞かされた直後だけに、アルベルトが渋い表情を作ったのも至極当然だった。
 如何に子煩悩の彼であっても、叱る時には厳しく叱る。そして『流石にここで引き返すというのは、出来れば御免被りたい』という心理も働いてか、少しばかりキツイ口調で「諦めろ」と口にしてしまったのだ。
 しかし彼の息子は頑としてこれを拒んだのだ。何故なら、自宅に戻ることが少なく、忙しい父親が、無理を押して誕生日に駆けつけてまで手渡してくれた、思い出の品だったからである。
「大事にする!」
 父親から受け取ったのはプレゼントだけではなかった。スケジュールを切り詰めてまで誕生日に駆けつけてくれる、『自分を愛してくれている』という確かな愛情だ。
 それが分かるからこそ、その言葉は覆せない約束となった。だからアーネストは、片時も肌身離さず、そのプレゼントを大切にしたのだ。それを宿泊施設に忘れてきてしまうとは、正に痛恨の極みだったが、それを正直に話せば父はきっと理解してくれるだろう。そう考えて彼は一生懸命、父親の説得にかかったのだ。
 まさかこの場で、そのような鼻の奥が少しばかりツンとする話を聞かされては、無碍には出来ない。しかしトンネルを引き返すのは以下同文。
「好きにしなさい」
 父親の口から、そんな投げやりな言葉が出てくるとは心外の極みだったが、俄然やる気に火が付いたアーネストは、姉のアンジェリカを伴って管理者の元を訪れた。既に施設は厳重に戸締りがされており、忘れ物を取りに戻った子供が忍び込めるような状態ではなかったからである。
 事情を聞いた管理者は、恐らく忘れ物を取りに戻れるのは、雪解けの季節まで待たなければならないだろうと考え、必死に懇願する少年の心中を慮って「分かりました」と、同行することを快諾した。
 管理者は、部下に先行するよう指示し、工程の安全確認を厳命すると、子供二人とともに、来た道を引き返し始めたのである。

  ◇

 それはまったくの偶然だった。
 廃棄処分されたシリンダーは、マグマの沼に轟音を立てて沈み込むと、わずかな時間も経てずに溶解し始めた。
 マグマの高温に曝され、中に詰まっていた培養液はアッという間に沸点に達する。そしてシリンダー内に気泡を蓄え始め、内圧に偏りを生じさせた。
 結果、マグマの灼熱によって出来た歪みと、気泡が溜まって出来たガスの圧力とで、シリンダーは破裂しながら砕け散った。
 その際、噴出したガスに紛れ、実験生物の細胞片がマグマ溜まりの岸壁へと吹き飛ばされた。細胞片が落ちた先には、硫化化合物のガスが充満する環境下においても繁殖するバクテリアのような微生物が存在していた(地球の地下四千mにもこうしたバクテリア類が存在し、地表面が巨大隕石の衝突による灼熱地獄で壊滅しても生き残ると言われている)。実験生物は、ギースが死滅を確認したうえで廃棄している。そのため、死骸にも等しい細胞片が、これら微生物を捕食することは無かったがその逆は有り得たのだ。
 微生物に取り込まれた実験生物の細胞変は、驚異の復元能力を発揮し、DNA内のRNAを書き換え自己の復元を果たすと、微生物をベースに無限増殖を開始し始めたのである。
 後はギースが予想したとおり、劣悪な環境下で繁殖する苔などの藻類を取り込み、残飯を漁る鼠を乗っ取り、ついには自由に動き回れる体を手に入れたのである。
 アメーバー状の不定形生物の体を手に入れた彼は、マグマ溜まりという小さな世界の王者として君臨した。そして一つの感情を持つに到ったのである。それは、定期的に廃棄される残飯や、それを漁りにやってくる鼠を捕食する程度では満足しきれない『餓え』という『本能』だった。肉体を維持する上で、最も強力で、且つ強烈なその感情は、大きくなりつつある体を支えるために、もっと多くの養分を求めるようになったのだ。
 自然その視線は、多くの残飯を廃棄するチューブへと注がれるようになった。
 が、すぐにそれは失敗だったと考え直すようになった。何故ならチューブは、マグマ溜まりの天井部分に、まるで鼠返しのようにして敷設されており、その所為で何度となしに、マグマ溜まりに落とされる結果になってしまったからだ。
 失った体を修復する度に、薄れ行く意識の中で臍を噛む思いをした彼は、代わりに鼠達がどこからやって来るのか注目するようになった。そしてそれはすぐに分かった。鼠達はいくつかの穴をつたって、このマグマ溜まりにやって来るらしい。
 彼は鼠に擬態し、穴をさかのぼっていくことにした。途中、いくつかの巣にたどり着いた。彼は喜び勇んで、巣にいた鼠たちを蹂躙していった。何度かはそうして全滅させたのだが、すぐにそれでは自分が餓えることに気がついた。ならば生かさず殺さず、適度に間引くようにして、彼は自分の飢えを満たすことを覚えていった。そして彼は、鼠世界の王となった。
 またこの頃から、彼の体は群体を構成できるようになっていた。その機能が何のために存在しているのか理解できなかった彼ではあったが、利用する価値は十分にあった。外敵である蛇や鼬を、容易に撃退できたからである。

 やがて彼は奇妙な感覚に捕らわれるようになった。『自分と同じ様な存在がいる』という、何とも言えない不思議な感覚だ。
 それは今いる場所よりも地下。それも『二人』いるらしい。
 そう。彼はいつのまにか魔力の源であるリンカーコアを持つに到っており、地下の二人もまた、同じような境遇になっていたのだろう。だから三人は、おっかなびっくり、互いに様子を見合うようにして、意思の疎通をしていったのである。と言っても、それは言語を用いた会話ではなく、テレパシーによる意思や思考の伝達に近いものだった。
 地下の二人のうち、比較的強い意思を持つ者は、どうやら過去何度かマグマ溜まりに落ちた際、今いる自分とは別に生き残った体の一部だったらしい。かつての自分がそうであったように、今はあのマグマ溜まりを席捲しているとのことだった。
 そして驚いたことに、もう一つはあの灼熱のマグマの中にいるという。四千度以上のマグマの中に、自分達の仲間がいるとは到底信じられない彼らだったが、確かにゴボゴボと不気味に沸き立つ赤銅色のその中から、自分達と同じ魔力の波動を知覚できるとなれば、否が応でも信じるしかないだろう。
 会話を繰り返すうち、どうやらマグマ溜まりの中にいる彼は、無限再生の果てにある他の二人と違い、廃棄処分されたシリンダー内にいた、原初の実験生物の生き残りであるらしかった。
 シリンダーがマグマに落ちた瞬間、シリンダーに静電気が生じた。これが電気ショックとなって、死亡していた細胞片の一部が息を吹き返したのだ。だがすぐに、マグマの熱に焼かれ死に絶えていく。そんな中にあって『彼』は自身の周りにバリアを生成。超高温からその身が焼かれることを防ぎながら生きながらえたのだ。
 長い時間バリアを維持するなど到底不可能に思えるが、『是が非でも生き残る!』という無我の思いは、マグマの熱エネルギーを取り込んで循環させる魔法特性を発現させるに到ったのである。
 そうして生き残る術を手に入れた彼は、マグマの海の中をたゆたいながら、これまでを過ごしてきたのだという。
 何はともあれ、仲間がいるということは心強い。壱も弐もなく、彼らは一堂に会することに決めたのだ。



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