魔法少女リリカルなのはA's VerH −宵闇の小夜曲−



   ― Digression. III ―

 ぴょんぴょんぴょん。

 まるでケンケンパでもするように、軽い足取りで階段を下りてきたのは、流れるような長い金髪を頭の両脇で二つに分け、黒のリボンで結わえた少女だった。
 フェイト・T・ハラオウンである。
 彼女は今、時空管理局の青い制服に身を包み、本局にあるドック方面に繋がる施設から出てきたところだった。彼女が来た方を望めば、小破したアースラ(07年発行 宵闇の小夜曲『フェイトの悪戯大作戦』参照のこと)の姿がある。艦体の修理が必要となるほどの被害ではなかったが、補給もかねて寄港したのである。
 彼女の足取りは軽かった。
 些細な行き違いがあったものの、より固い家族の絆を結べたことに、気持ちが知らず知らずのうちに弾んでしまうらしい。例えアースラの艦体に傷を付けたのが、他ならぬ彼女自身だったとしてもだ。

 ピョンピョンピョン♪

 そんな弾んで歩く彼女の姿を、すれ違う人々は老若男女を問わず、微笑ましく見送ってみせる。何せ、執務官候補生の中でも飛び抜けて目立つ美少女な彼女である。そんな彼女が跳ねて歩いていく様は、十人中十人が振り向くほどに輝いて見えたのだから無理もない。
「〜〜〜〜♪」
 鼻唄交じりに跳ね歩く彼女の視線が、不意に何かを捉えて見せたのはそんな時だった。
 目敏いなんてモノではない。例え百m離れた都会の雑踏に中にあっても、その目は流氷漂う凍てつく海の下にいる獲物を捉えた大鷲の如く、その姿を決して見逃したり、見誤ったりしない自信が彼女にはあった。
 そんな妙な自信の対象となっているのは他でもない。スキスキダイスキーな高町なのは、その人である。
 それこそフリスビーを食えて戻ってきたワンコの如く、フェイトは彼女の元へと駆け寄った。その笑顔は、それはもう地上に舞い降りた天使そのものだ。
「なのはーっ」
 そんな家族にだって見せない超極上の笑顔で近づいてくるフェイトに気がついたなのはは、そんなフェイトにだって負けないぐらい超極上のほんわか花丸笑顔を浮かべてみせて、
「フェイトちゃ〜ん♪」
 駆け寄ってくる大の友達に答えてみせた。
「どうして管理局に? 今日はお店の手伝いって言ってなかったっけ?」
 なのはの目の前三十センチのところまで駆け寄ったフェイトは、教導隊所属を示す白い制服に身を包んだなのはに、今日の用向きを訪ねてみせた。
 すると問われた方のなのはは、バツの悪そうな顔を浮かべると、
「にゃははー。それがその・・明日までに提出する書類ってのがあるのを忘れててさー」
 苦笑いと共に書類の入ったプラケースを掲げてみせた。
「レイジングハートに言われるまで、すっかり忘れてたよー」
 失敗失敗。と舌を出すなりなのはは自分の部署が収まる施設棟へと歩きだした。もちろん一緒に行こうと差し出した右手は、極めてナチュラルに。そして極平然とフェイトの手を繋いでみせる。
「そうなんだ」
 そんな彼女の天然ジゴロッぷりに、ちょっとドキマギしつつも、肩を並べて歩き出したフェイトはしかし、手伝おうかと言い募りそうになるのを必死にこらえてみせた。
 今の二人は(当たり前ではあるけれども)別々の部署に所属している。その関係上、機密事項や守秘義務の絡む仕事も抱え込むようになっていたのだ。よって夏休みの宿題を片付けるみたいに、おいそれと手伝うわけにはいかなくなっていたのである。
 それでも手伝いたいよ――――ッ!
 スキスキダイスキーななのはの力になりたいフェイトとしては、残念ながら胸中で、声を大にして叫ぶことしかできず、そして喜色満面と意気消沈を目まぐるしく変化させるという、傍目にも面白い百面相を展開する羽目に陥るのだった。
「ところでフェイトちゃんはどうしてこっちに?」
 そんな愉快なフェイトの心中を知ってか知らずか、なのはは偶然鉢合わせた理由を、フェイトに問い質してきた。
 スキスキダイスキーななのはに、覗き込まれるようにして問い質されたフェイトは、胸の内を見透かされたのかと慌てふためき、挙動不審を絵に描いたような状態になりながらも、なんとか心の平静を取り繕うと、
「え、えと・・そう! アースラの補給で立ち寄ったんだ。ちょっとした故障が見つかっちゃったから、そのついでに修理もしようって。
 半日ぐらいかかる作業だっていうから、それまで時間、アルフの様子でも見てこようかなって・・・」
 そう答えたフェイトの脳裏には、これからは自分のやりたいことをおやりよ。と言ってタユンと揺れる胸を張り、自分との距離をとるようになった使い魔アルフの姿を思い浮かべていた。彼女は、無限書庫で働くユーノ・スクライアの片腕となって既に久しく、日々を忙しくしているらしい。だから陣中見舞いにでもと思って、彼女達の職場へと向かう最中だったのだ(それとは別に、『あのこと』についても、問い質す気満々でいたのだ)。
 ちょっとドキマギしたものの、無難に応えることが出来たことに満足するフェイトに、
「あー。そう言えば私も暫くユーノ君と会ってないなぁ。だったら私もちょっと様子見に行こっかなぁ」
 と、なのは。勿論レイジングハートがそんなどうしようもないマスターを窘める一幕もあったのだが、三十分ぐらい平気だよ〜。といういかにも『やりたくない仕事は後回し』的な言い訳をして、すわフェイトが、やったー♪ と内心で小躍りした矢先である。
“フェイト! ちょっといいか?”
 突然、二人の間に映像を伴う通信モニターが開き、息せき切った様子の少年の姿が、そこに映し出された。相も変わらず濃紺のジャケットを引っかけている少年は、もちろんフェイトの義兄であるクロノ・ハラオウン、その人だ。
 画面の中の彼はまだアースラの中にいて、その背後に映っているエイミィ・リミエッタが、てんやわんやの体でコンソールと向かい合っているのが見える。
 そんな二人の切羽詰まった雰囲気に何かを察したファイトは、せっかく良いところだったのに! 口を尖らせるのもそこそこに、執務官候補生の厳しい顔つきになった。
 何かあったのだ。
 フェイトが画面越しになのはを確かめると、彼女もまた准教導官の顔になっているのが分かる。
 お互い、仕事が見に染みついちゃったんだね。とフェイトは苦笑するも、意識は既に画面の中のクロノに向いていた。
“ああ、なのはも一緒だったのか。ちょうど良かった”
 画面の中のクロノは、フェイトの隣になのはがいることを認めると、本当にちょうど良かったと言う顔を作るなり、挨拶もそこそこに緊急連絡を入れた経緯を説明し始めた。

「はやてのいる時空世界が、閉鎖処理?」
「なんで? どうしてクロノ君!」
“それはこっちも聞きたいところなんだ”
 フェイトとなのはの二人に矢継ぎ早に質問され、クロノは辟易した顔で返してきた。
“表向きは、はやてが追ってた犯罪グループのメンバーが別の時空へ逃走を図らない様、未然に防ぐための処置だって事になっている。だけどあまりに急だし、手段が強引すぎる。
 母さ・・リンディ提督がシモーネ提督に、個人的なホットラインで連絡を取ろうと試みているけど、既に通信系は閉ざされていて確認のしようがないんだ”
 絡み合わせた両手の指の上に顎をのせ、クロノは渋い顔つきで現在の状況を説明する。
“はいゴメンネー。発令は今さっき。本部に提出されたシモーネ提督の定時報告を検討した結果、諸々を鑑みて発令したんだってさ”
 クロノを脇に追いやって、エイミィがえいやっと割り込んできた。
“でも、なーんか胡散臭いんだよねぇ。定時報告から発令までのタイムラグとか考えると、なんか予め決められてましたって感じがしてさぁ・・・”
“・・とにかく! これから僕と提督は、艦隊本部に出向いて事のあらましを確認してくるつもりだ”
 今度はクロノがエイミィを押しやって画面を占有して、これからのことを報告してくる。
――相変わらず、仲が良いんだねぇ。
――・・うん。
 そんな二人の押し合いへし合いする様をみて、イチャイチャするなら外の場所でお願いします。という視線を二人は送った。
 だが引っ掛かることがある。何故そのような話を、わざわざ出先で、更にはなのはまでをも巻き込んで伝えにきたのかと言うことだ。そしてそんな時は必ずと言っていいほど、情け容赦ない要求を突きつけてくるということを、フェイトはこの一〜二年の間に学んでいたのである。
 果たしてフェイトの予感は的中した。
“前々から噂になっていた、『意志決定機関』が関与したのかもしれない”
 意志決定機関!
 その言葉を聞いた瞬間、フェイトの眉間に皺が寄った。
 そんな彼女の様子に驚いたなのはは、戸惑いの表情を浮かべつつも、画面の中のクロノの言葉に耳を傾け続けた。
“まだ判然としたことは分かっていない。機関が何を持って時空間閉鎖だなんて思い切った決定を下したのか理由は分からないけれど、はやて達の身に何かが起こったことだけは確かだ”
 クロノの言葉のその意味に、二人は同時に首肯してみせた。
 時空間閉鎖をすると言うことは、一時的とは言え、その時空間に渡航することが出来なくなるということだ。
 時空震や空間被害が発生したとしても、予め閉鎖していれば被害そのものを低くすることが出来るし、他の次元にも、影響が及ばないよう対策が図れる。というのが表向きの理由である。災害被害を考えれば当然のことだろう。だがしかし、中に閉じこめられる格好になったはやて達は、どうなるというのか?
 だから二人は戦慄したのだ。
 大事な友達を、そんなところに閉じこめるだなんて!
 そしてなのはは一つのことに気がついたのだ。
「クロノ君! ひょっとしてその機関て、闇の書のことをよく思っていない人達の集まりなの?」
 しかしなのはの言葉は最後まで口にすることは出来なかった。脇にいたフェイトが慌てて彼女の口元を塞いだからだ。普通であれば、そんなことをされれば抗うものなのだが、でもなのはは、それ以上抗うようなことはしなかった。失言と言うことも勿論ある。だがそれとは別の理由があったのだ。
 盗聴である。
 管理局内部において、『闇の書』とは禁句、禁止要項に未だ君臨し続ける横綱的存在だったのだ。勿論、規定や条項として明示されているわけではない。暗黙の了解の内に、局内で澱のようにして横たわり続けていたのである。だから不用意にその話題を出ようものなら、良かれ悪しかれ、即はやてに猜疑の目が向けられるということからも、容易に察することが出来るだろう。ちなみに、気軽に口にして良いのはユーノら無限書庫に所属する職員や、出入りする研究職の人間ぐらいで、それ以外の人間が話題にしようものなら、二〜三日消息不明になるという都市伝説が流れていたりするほどである。
 だからはやての周囲には、盗聴、監視の目が光っているという噂は、まことしやかに囁かれていたのである。
 まさか、闇の書事件の功労者でもあるなのは達が、拉致監禁される様な被害に遭うとは到底思えなかったが、万が一ということもある。ならば、用心をするに越したことはないだろう。
 こんなことではやての気を揉むのは不本意だからね。
 それは管理局に籍を置くようになってからすぐ、クロノを交えて取り決められた約束事だったのだ。
「・・てへへ。ごめんなさい・・・」
 だからなのはは、画面の中のクロノとエイミィ、そしてフェイトに謝ったのだ。
“まあいいさ。その可能性も否定できないのは確かだしね。
 でもこの騒ぎに乗じて、不逞を働く連中が出てくる可能性もある・・・”
 所謂、火事場泥棒という奴だ。どこの世界にでも、そう言う不逞の輩は必ず存在するものだ。そして管理局の動向を事細かく掴んでいるような脛に傷を持つ連中ならば、今そこで何が行われつつあるのか把握していて当然で、それを理解した上で彼らはそこに赴こうとするのだ。己の命の危険を賭してまですることではないように思えるが、管理局が血眼になって回収している代物を、横から掠め取る絶好のチャンスとあれば、そうも言ってられないのだろう。
 しかしここでクロノの話は迷走し始めた。
“そういった輩が狙うのは、まず個人持ちのクルーザーだ。
 僕が知っている限り、最も近いところにレティ提督のものがある。悪いがお前達、先行して警護してくれないか? 後から人をやるから”
「ハイ?」
 画面の中のクロノは、飛躍しすぎて話が見えなくなるようなお願いを、酷く真面目くさった表情でそんなことをいってきた。
 普段の理路整然とした、精緻緻密を体現したような彼らしくない物言いは、あからさまに怪しかった。
 だからなのはは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたものなのだが、しかしフェイトは、彼の言わんとするところに気づいたらしい。
「了解。なのはと二人で警護に当たるよ。
 ところでオニイチャン。来月発売のアクセでほしいのがあるんだけど・・・?」
 ムフフ。
 普段の大人しい彼女からは想像も出来ない小悪魔のような表情を浮かべるフェイト。だがそれは、誰がどのようにして見ても、おねだりしているようにしか見えなかった。
 瞬間、クロノの表情がヒクッと引きつったのも当然だ。
 何を言ってるんだお前は。
 次の瞬間、なのはは画面の中のクロノが戯れ言をほざくなとばかりに断る様を想像したものだ。しかし現実はその正反対の様相を呈したのである。
『・・わかった。あとで相談しよう・・・』
 肩をフルフルと震わせ、青筋を浮かべた額を引きつらせながらも、クロノは努めて平静を装って承諾してみせた。
 これこそ正に晴天の霹靂。一体何がどうなってるの?
 なのははポカンとした表情で、クロノを凝視することしかできなかった。
 しかしそんなクロノに向かって、
「やったー。それじゃなのはの分もお願いするね♪」
 と、フェイトは情け容赦なく追加のおねだりをしてみせた。当然クロノは泡を食って、
“な! ちょ、ちょっと待てーッ!”
 と身を乗り出して声を荒げる。しかし言質はとったとばかり、バルディッシュを掲げてみせたフェイトは、問答無用。聞く耳持たないとばかり、通信を切ってしまったのだ。
「じゃ、行こうか。なのは♪」
 ちょーゴキゲンとばかり、その場でクルリと一回転してみせたフェイトは、一連のやり取りを呆然として見ているだけだったなのはの手をとると、軽やかに駆けだした。
 だが当のなのははといえば、そんな兄妹のやり取りに目を丸くするばかりだった。普段の見知っている二人は、どこか遠慮したところがあって、チグハグな感じがあったのに、今目の前で展開された光景は、兄恭也とその恋人である忍の仲睦まじい春色ラブラブ空間に相違ない。
 だから彼女の戸惑いはひとしおで、
「い、いいの? クロノ君、泡食ってたけど・・・」
 自分の手を握って先導する金髪の親友に、戸惑い気味に問いかけたのだ。
 だがそんな彼女の心配なんて気にした風でもないフェイトは、
「い・い・の♪」
 極上のスマイルを返し、グングンなのはの手を引っ張って、颯爽と駆けていった。髪をなびかせ駆けるその姿は、さながら清らかな乙女を乗せて走るユニコーンのたてがみようだった。
 そんな親友の雰囲気から、二人の関係に何か良いことがあったんだなと得心したなのはは、ニパッと笑顔を返すと、
「急ごう、フェイトちゃん! はやてちゃん達が待ってる!」
 二人は手に手を取り合って、一路、クルーザーが係留されている港へ向けて、駆けていった。

 その三十分後――――
 個人所有の一隻のクルーザーが、ルート一九一A 第二○二管理外世界ランスベルクへと向けて、出港していったのである。

   ◇

 ミッドチルダ文明圏の首都クラナガン。その首都から環状線トラムで五分ほどいったところに、高層ビルが立ち並ぶ商業特区に指定された都市がある。
 軒並み三百mを超える高層建築物が集中する中心部には、ミッドチルダ文明圏おいて十指に入る大手企業の本社が居を構える一方、伝統と歴史に裏打ちされた格調高い高級ホテルや有名ブランドの直営店、三つ星指定された格式高い高級レストランが、競い合うように軒を連ねていた。かと思えば、ドーナツやハンバーガー、アイスクリームを扱うパーラーハウスといったフランチャイズ店舗や個人で頑張っている店などが多数出店しており、ミッドチルダ文明一の文化発信地区との呼び声も高い。
 そんな高層建築物群の内の一つ。蒼天の空にそびえる白亜の棟の最上階に、西洋風に造園された庭園がある。テニスコートが十面は取れそうなほど、巨大なその庭園の端に、よく手入れのされたバラの生け垣に囲われた東屋が建っていた。
 東屋には、西洋アンティークを思わせる精緻な彫刻が施された小さなテーブルが一つと、樹齢三百年の巨木から切り出して作った、ゆったりと腰掛けることができる大きな椅子が二脚、その存在感を誇示するかのようにドッカリと置かれていた。
 庭園は、気候調整用のフィールドに覆われていて、横殴りの風が吹きすさぶこともなければ、終始、常春を思わせる安定した気温と環境を提供する憩いの空間として機能するよう調整されている。勿論、音響面においても手抜かりはない。建築物の足下を行き来する自動車や環状線トラムなどの都会の喧噪。それらをほぼ完璧に遮断するようになっている。だからその庭園で、目立って響く大きな音といえば、時折、甲高い声を上げて鳴く鳥ぐらいのもので、その快適さは、ヘタな避暑地などより数段上と言っていいぐらいのものだった。
 そんな快適空間に設けられた東屋を、一人独占しているのは、顎髭を蓄えた老人である。
 彼は薄手のシャツの上にブランド物のカーディガン、そしてスラックスというラフなスタイルで、椅子に浅く腰掛け、脚を投げ出すようにして船を漕いでいた。この様な快適空間に設けられた椅子の上で、一人でくつろいでいれば睡魔に襲われても仕方がないだろう。まして東屋の何処かに設けられているスピーカーから流れるスローテンポのジャズが、心地よく響いてくるとなれば尚更だ。
 ゆっくりと規則正しい寝息をたてる、一見好々爺然としたそんな彼こそ、ゼーレを生み出した研究者を抱える組織、複合企業体『ヒーリクス・コード』を取り纏める総帥、ヌーラン・ヴォイド。その人であった。
「旦那サマ・・・」
 不意に、彼の眠りを妨げる硬質的な声が響いた。瞬間、ジャズはボリュームを落とされ、ほとんど聞き取れないほどの音量になった。そんな環境の変化が起これば、意識が覚醒されて当然だ。老人は深くゆっくりと深呼吸を突き、次いでヘイゼルに染まる双眸を開くと、声を掛けてきた執事ロボットへと目顔で応えてみせた。
「オクツロギノトコロ、申シ訳ゴザイマセン。
 申シ使ッテオリマシタ例ノ件デゴザイマスガ、ヤハリ旦那サマノ目論見通リニ推移シツツアルヨウデス・・・」
 老人の趣味なのだろうか。ロボットは不思議な国のアリスに出てくるハンプティダンプティそっくりな卵型のボディにタキシードをあつらえた姿をしており、細長い手足でもって大仰なリアクションをとりながら、老人にむかってその様に報告してみせた。
「如何イタシマショウ?」
 右手を胸に宛がい腰を折ったロボットには顔というモノがなかった。代わりにキュッと締められたネクタイの上に、小さな鼻梁のような突起物があり、そこにモノクルと呼ばれる単眼メガネをかけることで、彼は顔のようなモノを持つに至っていた。
 そんな彼のモノクルが、昼下がりの陽光を僅かに反射してキラと光る。姿形こそ間抜けに見えるが、その所作は、まるで大物フィクサーに仕える一流執事の正にそれだ。
 そんなロボットの報告を受けて、老人は再び大きく息を吐き出した。今度のは深呼吸のそれではない。困った奴だ。という呆れにも似た溜息のそれ。そして老人は上半身を起こすと、ゆっくりと立ち上がった。それを支えようと動くロボットに手を振り、制止させる。まだそこまで老いさらばえていないと一睨みした彼は、
「しょうのない子だ」
 そう漏らしながら、もう一度短く溜息をついてみせた。
 それから彼は、強張っていた体をほぐすように、たっぷり五十数えるぐらいしてゆっくりと首を回し、そして同じように十数えるぐらい長く背伸びをしてから後、ロボットに向けてこう言い放ったのだ。
「ヒーリクス・コードが長、ヌーラン・ヴォイドの名において、『DC(優先命令権)』の発動を命じる」
 老人はまるで手品のようにして、右手の人差し指と中指の間に一枚のカードを挟んで取り出すと、それをクルリと掌で一回転させる。
《Startup!》
 するとどこからともなくその様な機械的な音声が聞こえると、次の瞬間、老人の手には一本の杖が収まっていた。薄い飴色の鈍い光を放つ銀色のそれは、年代物を思わせるが、確かに魔導師達が手にする紛う事なきストレージデバイスだったのである。
「『DC』発令ニ対スル第一条項ヲ確認シマシタ。コレヨリ、第二条項ノ確認ヲ行イマス」
 杖を握り立つヴォイドの姿を、どこか名残惜しそうに見つめたロボットが、ギシュッという大きな音を立て、九十度の角度で腰から上を折ってみせた。するとどうだろう。お辞儀をしたロボットの背に魔法陣が浮かび上がり、なにがしかの法程式が組み上げられ始めたのだ。
 法程式は複雑怪奇な術式を組み上げていく一方で、新たに別の法程式を呼び出した。そして呼び出された法程式は新たな術式を組み上げる一方で、更にまた別の法程式を呼び出していく。そうして法程式は倍々と増えていき、終には、ある解を求めるにいたったのだ。
 その解とは、ある者の封印を解くこと。
 封印されていた者。それは、老人が何十年か越しに再会する懐かしい友人であり、兄弟のような存在。魔導師達はそれを一様に使い魔と呼んだ。
「久しぶりだな、ゼルンスト・・・」
 使い魔ゼルンスト。それがロボットの中に封印されていた者の正体だ。
「ああ・・そうだなヴォイド。君は随分と白髪と皺が増えたようだ」
「それはそうさ。何十年経ったと思ってる?」
 最早、ピクリとも動かなくなったロボットの背から飛び降りるようにして、庭園の片隅に降り立ったゼルンストは、少年の姿をとっていた。
 一見、線の細い体つきではあるものの、引き締まった筋肉は、無駄な筋肉や脂肪など微塵もないほど均整が取れているのが分かる。程良く日に焼けた肌は浅黒く染まり、短めに切りそろえられた頭髪は、逆立つように固められていて、鋭く尖る鼻と相まって米国の国鳥、白頭鷲を連想させた。なぜなら彼の頭髪は、象牙のような黄白色だったからだ。
 そんな攻撃的な猛禽を思わせるに一役買っている深めの眼窩の底で、黒目がちの瞳をギョロッと動かした少年は、目の前の老人を一瞥してみせた。
「・・五十年・・といったところか。なるほど。君も歳をとるわけだ。
 ところでこのワトソニアン、まだ使っていたんだな」
 嘗て姿と今の姿をダブらせたのか、ゼルンストは落胆したように溜息をついてみせた。恐らくは再開時の楽しみと、彼の中で思い描いていた姿があったのだろう。だがそのギャップに、彼は少々落胆しているらしかった。
 その落胆振りに、ヴォイド老人は「悪かったね」と悪態をつきながらも、昔と変わらぬやり取りが出来ることに胸が弾んでいるようで、意に介した素振りもない。
「それが一番性に合ってたんでな。よく仕えてくれたよ」
「そうか・・・。
 それで? 五十年振りに俺を呼び出したんだ。つまらん内容だったら容赦なくシバいてやるぞ。それこそ彼岸の向こうに追いやらん勢いでだ」
 たった今まで自身の封印を管理し、今ではピクリとも動かなくなったロボットの労を労うように手を置いたゼルンストは、しかし次の瞬間、精悍な顔つきを取り戻し、主人であるヴォイドに振り返った。
「誰にモノを言ってる。退屈などさせんさ」
 魔導師として復活を果たしたヴォイドは、使い魔にむかって不敵な笑みを浮かべてみせると、
「嘗ての約束を果たす時がきた。
 私が私であるために。お前がお前であるために。
 そして為すべき事を、為すために」
 デバイスを傾け、ゼルンストの肩に置く。
 それを受けて使い魔は、乱ぐい歯が垣間見えるほどに猛々しい笑みを浮かべると、
「了解だ、マイ・マスター。
 我らが我らであるために。
 行こう。共に」
 握った拳を主人の鳩尾辺りに押しつけた。
 そして二人は頷きあった。
「「彼の地へ!」」

 二時間後――――
 秘密組織『ヒーリクス・コード』の幹部会に激震が走った。
 総帥であるヌーラン・ヴォイドが急死したという訃報だ。
 そればかりか、彼の後任には、孫娘であるローラン・ペーネミュンデを指名するという遺言も合わせて公表されたのだ。
「ふざけるな!」
 表向きは造船企業として業界でもトップクラスに位置するが、その実、裏では企業体が扱う特殊装甲車両などの製造の一切を取り仕切るレーベンブロイ・アスナスは、その報告を受けるなり怒号を持ってオフィス机を殴りつけた。
「あのクソ爺ぃ! Null and Voidなどとふざけた名前を名乗るばかりか、全ての財産、権限をどこの馬の骨ともしれない養女のその小娘にくれてやるというのか!
 ふざけるな! ふざけるなーっ!」
 好々爺然としたヴォイドに比べ、彼の方こそフィクサーのドンという如何にもな風体をしている。その証拠に、彼の眉間には深い深い皺が刻み込まれており、それがどうしようもなく、初見の人間を尻込みさせる相を作っていたからだ。ましてフィクサーのドンたるフォーマットを踏襲するように、揉み上げから繋がるようにして伸びる、濃い顎髭で蓄えているのだから無理もない。
 そんな彼が赤ダルマそっくりになって憤慨し、癇癪を起こしていた。そんな彼に近づくことは、対岸の火事をバケツリレーで消すほどに困難且つ、危険であることを熟知していた彼の秘書は、彼が手に取った物を放り投げても害になるかならないかという絶妙の距離をとって控えていた。
 彼女は、あらん限りの罵詈雑言を言い尽くし、一通り頭に登った血を下げた頃合いを見て取ると、
「よろしいでしょうか? 先ほど最高幹部会の名で、メンバーの招集が発令されました」
「幹部会の名で・・だと? バカなことを言うな! 幹部会はメンバーの過半数がなければ招集がかけられるわけがない!」
 だが彼の言葉は、最後まで出し尽くすことはなかった。彼は言葉半ばにして気がついたのである。幹部会の過半数を集めることなく、メンバーを招集することが出来る特例が存在することに。
 即ち、彼らの盟主、ヒーリクス・コードの総帥による招集だ。
「小娘め・・・。早くも総帥気取りか・・・!」
 ギリと歯を軋ませ、血が滲むまでに握った拳を振るわせて、レーベンブロイは敵愾心に狂った目で、そこに存在しない女の姿を睨みすえた。
「・・辞退されますか?」
 しかし女秘書は淡々としたものだった。主人の、いや雇用主の機嫌を損ねようとも、自分の責務を忠実に果たさんとするその姿勢は、見事の一言に尽きる。
 だから彼女は小さく黙礼一つすると、「誰も行かんとは言ってない!」という主の返事も待たずに踵を返したのである。
「失礼いたします」
 激昂する主をにべも無く無視した彼女は、一枚板から切り出された重厚な木扉から外へと辞した。
「・・・・・・・・・ッ!」
 木扉が重い音を立てながら閉じる際、中の住人から怒号のようなものが投げ掛けられたようだが、彼女は気にした風でもない。その証拠に、冷笑を浮かべて懐からケータイのような情報端末を取り出すと、しなやかな指先で情報を入力してみせる。
「これからの予定は全てキャンセル。ついでに私との契約も・・っと。」
 端末のコンソールの端に銀行の口座画面が現れた。零が六つほど並ぶ金額が、自身の口座に振り込まれたことを確認した彼女は、クスリと笑みをこぼしてみせる。そしてその笑みを湛えたまま、奥にあるエレベーターホールに赴くと、主であるレーベンブロイを待つことなくホールのボタンを操作した。
 エレベーターが登ってくる僅かな合間、手品のように虚空から取り出したコンパクトで口紅を整えた彼女は、情報端末を何の躊躇もなく傍らに備え付けられているゴミ箱へと放り込んだ。そして程なく到着したエレベーターに乗り込んだ彼女は、
「では・・良い旅を・・・」
 冷笑と共に、深く深く腰を折って消えていった。

 翌日――――
『同時多発テロと思しき爆破事件が六件。立て続けに発生』
『標的は皆、大手上場企業! その背後の関係とは?』
 ミッドチルダの主要な新聞各紙、情報メディアにはそんな見出しがおどっていた。
 それを興味なさそうに見つめているのは、風呂上がりのバスローブに身を包んだ妙齢の若い女性。そんな彼女の濡れた髪に、ドライヤーと櫛をあてているのは他でもない。つい先日まで、レーベンブロイの秘書を務めていたあの女である。
「・・権力って、いざ手にすると何の感慨もないのね・・・」
 女にされるがままに任せていたローラン・ペーネミュンデは、物憂げな表情と共に、その胸の内をこぼしてみせた。
 すると彼女の髪を梳かしていた女は、クスリと小さく笑うと、
「それは事態の推移があまりに急で、実感が伴わないだけではないのですか? お嬢様」
「お嬢様はやめてよ、ヤヨイ!」
 口を尖らせ、ローランは女を、ヤヨイを咎めるような視線を送ってみせる。それを昨日までとは打ってかわった柔らかい微笑みで受けたヤヨイは、「申し訳ありません。お嬢様」と切り返してみせた。
 そんな彼女を、「もうッ!」と短く批難するローラン。だがその仕草は、とても二十代半ばで組織を束ねる地位に就いたとは到底思ぬほど、あどけなさを伴っていた。だが彼女は、複合企業体たる秘密組織『ヒーリクス・コード』を統べる地位にいる。それは紛れもない事実であり現実だった。

『我が孫娘であるローラン・ペーネミュンデに、全財産と総帥の全権限を譲渡する』

 何の音沙汰もなしに、突如そのような文書が、まるで回覧板のような気軽さで彼女の元に送られてきたのは、ヴォイドがDCを発動したという情報を受け取った矢先の出来事だった。
 DC(Direct Code=絶対命令権)。
 一度それが発動されれば、『ヒーリクス・コード』に属する企業は、その全てを発令者である総帥の指示に従うこととなる。その強権は、時空管理局の組織に深く食い込んだコネクションにまで及び、事実上、全ての時空間を支配下に置くことが可能となるのだ。
 正しくこの世の全てを手にすることが出来る最強の権限。JOKERのカード。それがDCなのである。
 しかしその発動には、二重三重と設けられた承認が降りなければならず、おいそれと発動できない仕組みになっていたのだが・・・。
 だがそれだけ巨大な権限を使ってヴォイドが何をしたのかと思えば、先術の遺言と死亡届の二通を寄越してきただけなのである。
 流石のローランも、これには面食らったものだ。自分のことは表向き死んだ事にしてほしいという無茶な要望もさることながら、てっきり自分が暗躍した『例の一件』について、横槍を入れてくるものとばかり思っていたからだ。
 不可解の一言である。
 遺産相続はまだしも、死亡届は冗談が過ぎる。無論、ヴォイドにその真意を問い詰めるため、彼女は既に手を打っていた。しかし彼はDC発動後、何処かへと姿を眩まし、捕まえることが出来ないでいる。それがDCによる影響であることは皮肉ではあったけれども。
 祖父が一体何を考えているのかわからない。
 だからローランは、薄気味悪い悪寒めいたものを感じて身震いしたのである。
「どうしました? お嬢様」
「・・なんでもない・・・」
 気丈に振る舞ってみせるも、不安がないわけではない。祖父の遺体が無い以上、組織の掌握に、一苦労するのは目に見えている。まして彼女の意見を優先する祖父のにやり方を不服とし、水面下で不穏な動きを見せていたメンバーを、粛正の名目で亡き者にしているのだ。既存のメンバーを取り纏め、且つ新規のメンバーを選出するという大仕事は難航を極めるだろう。
 だが、そんなことは杞憂だ。
 彼女にはヤヨイをはじめ、信頼できるスタッフとコネクションが存在している。それを使って動いてきた経験を礎に、これまで以上の働きをしさえすれば、この難局を乗り切ることだって難しくはないはずだからだ。
「なんでもないわ。ヤヨイ」
 彼女はもう一度、しかし力強く背後に控える頼りになる腹心にそう言うと、立ち上がってバスローブを脱ぎ捨てた。
 スルリと音もなく滑り落ちたバスローブの下からは、白く透き通るような白磁の如き滑らかな肌が現れた。程良く締まった腹筋と相まって描かれるボディーラインは、どんな芸術作品よりも美しく、そして扇情的だった。それに華を添えるのは、しっとりと濡れた絹の如き光沢を放つ長い髪。
 そんな肢体を惜しげもなくさらけ出した彼女は、妖艶な笑みを浮かべると、
「お爺さまが何を目論んでいるのかなんて知った事じゃない。私は私の道を征くだけ。
 やるわよ。ヤヨイ!」
 そう振り返って、力強く宣言したのである。
 それは、全ての時空を手中にした女帝が、最初に発した言葉だった。

   ◇

 歌が聞こえる。
 贖罪の歌が。
 神に許しを請う、その歌が。
 ボーイズソプラノの高く澄んだ声で、朗々と。朗々と。

 少年は涙を流す。自らのために、囚われの身になった仲間のために。
 そして、いよいよ訪れたその時を祝うために、滂沱の涙を流して歓喜の声を上げるのだ。
「ついに来たぞ。この時が!
 あの日、あの時、あの瞬間に抱いた疑問の答えを得る時が!
 ニンゲンになるこの時が!」

 歌が聞こえる。
 歓喜の歌が。
 この世に生を受けた、御子を讃えるその歌が。
 そして、この世に破壊を招く、終焉のその歌が。
 朗々と。朗々と・・・。



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